サイコロブログ。
Amebaでブログを始めよう!

こんなことになったのは絶対お前の所為だ。

私たちは大小さまざまな選択をして日々を生きています。
パスタとピザどっちを食べよう。とか豹柄とゼブラどっちがいいだろうとか。優柔不断な私のような人はあぁでもないこうでもないとどうでもいいようなことで悩んでいるかもしれません。

でもそういう人でなくとも人生の中で数回はどう進むべきかを選択する場面に出会うでしょう。
例えば高校受験だったり、結婚だったり、転職だったり・・・と。それはもしかすると自分の一生を左右するかもしれないという場面のときです。そしてそれらは自分の意志だけで決められないことも多く含んでいます。

私が高校受験を決めるまでも大きなが家族の中に吹き荒れました。
英語が好きだからといって国際科への進学を希望する私と、進学校への進学を強く望む家族との激しい対立です。それはしばらく続きました。
結果・・・私は進学校への進学を決めたのです。

この当時私はぶつぶつと暴言の数々を家族に向かって吐いていました。「国際科に行っていたら私は○○をしていたかもしれないのに。」
とかそんなことを。

でもふと振り返ってみると「じゃぁ何で振り切ってでも私は国際科へ行かなかったのだろう」という疑問にぶち当たったのです。

・・・結局は私も迷っていたのでした。
断然就職する人が多い国際科と進学する人が多い進学校。
どっちにもメリットがあってデメリットが有って。
そんな中「しょうがない親がこんなにいうんだから仕方がないなぁ」という後押しをもらって私はこの選択をすることができたのです。

だからもしあなたが「こんなことになったのは絶対お前の所為だ!」などと強くののしられたとしてもすぐにしょんぼりする必要は無いかもしれません。
相手はそうあなたの所為にすることで苦しい選択を乗り切ろうとしているかもしれないのですから。

期待が大きければ大きいほど。

相手に「してあげた」という達成感が大きければ大きいほど
それを裏切られたという気持ちは大きくなるものですよね。
「見返りを求めない愛」という言葉がありますが、実際のところそれを維持し続けることはなかなか難しいものです。

不登校のお子さんを持って「何とかしたい」と悩んでいるお母さんは毎日がその繰り返しのような気がします。
子供の背中に向かって「明日は行ける?」と言葉をかけると、子どもは「行くよ」と答える。それを聞いてお母さんはほっとするのですが次の日になると「やっぱり行けない」と言い出す。
お母さんとしては「夜の約束は何だったの?」という裏切られた気分になり、もしかすると子供に当たってしまうかもしれません。期待していた分です。
で子どもの気持ちとしてはまったく傷ついていないのでしょうか?
きっと違います。
「またお母さんを裏切ってしまった。僕(わたし)はダメな子だ。」と自分を責めているかもしれません。

期待する・される。ということはお互いの力になりますし励みにもなります。
でも心のどこかに傷を抱えている人たちにとっては大きな負担になりかねません。

「ちょうどいい塩梅」という言葉を昔の人はよく使いますね。
でも「ちょうどいい塩梅」は一度では分かりません。
みんな何度も何度もぶつかったりくっついたり離れたりして
試行錯誤する中で、理屈じゃなく体で覚えていくものなのでしょうね。

よし。釣りに行こう。

魚よく食べる人、自殺しにくい?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041018-00000332-jij-soci

今日は快晴。風もあまりないし絶好の釣り日和。
爆釣タイム狙って釣りだー。と意気込んでいた私。
あまりにタイムリーなネタで思わず。
会社の食堂とかに急に魚メニューが増えたりしたら反応してしまうかも。

誰でもない人

人 ひきこもりの訪問ケア
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/0223ke15000.html

ひきこもる。
たとえば失恋をしたり、会社で失敗をしたり、なんだか面倒くさくなったりして短期的に「ひきこもる」という行動に出る人は少なくないだろう。それは「ひきこもる」ことでがたがたと崩れていってしまいそうな自分を温存するだとか、こじれていってしまいそうな心の状態を守るとか、そんなことを考えてするわけではないのだけれどそういった意味があるのだと思う。

でも「ひきこもる」という行為が「次へのステップへの手段」でなくなったとき、それが「ひきこもり」というものになるのだろう。

前述したように「負の体験」というか「失敗体験」というのは誰にでも起こりうることで逆にそういう経験をすることで「成功体験」を味わうことができるのだが、「失敗体験」ばかりが積み重なったり、それから立ち直る機会に出会えなかったりすると「自己肯定感」が薄くなっていってしまう。

「ひきこもる」が「ひきこもり」になるまでの間の期間。
家族や周囲の人や言葉やあらゆる刺激が、その人の人生をがらりと変える鍵を握っているだろう。

でもそれが「ひきこもり」になったときには誰でもない他者の介入が時として必要になるのかもしれない。

引きこもり になる前に

「引きこもり」初の対策、集団合宿で自立を支援 文科省、来年度から
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040813-00000005-san-pol

この記事を見つけたとき「あぁやっと行政も動き出してくれた」と少し安心した。
でも「何で今なんだ?」という気もした。
というのも不登校や引きこもりの問題は今に始まったことではない。
だから国でも実態調査をしたりと動いていたはずだ。
が。いつものことながら対応は遅い。
現場にいる人間はもっとずっと前から警鐘を鳴らしていたはず。
表面化してから対応するのは簡単なこと。
でも表面化した問題を解消していくのはとても難しいこと。
兆候を察知して「そうなる前に」動いていかないと、悪循環のいたちごっこだろう。
子どもの教育にはもっともっといい意味で敏感でありたい。

死に友達募集

「ネットで死に友達」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041013-00000408-jij-soci

ネットを頻繁に使う私としては気になるニュース。
ググったりしていると上記のようなサイトにたどり着いてしまうことがある。
「稼いだ少ないお金でどう楽しむか」を必死で考えている私はその波に飲まれることはないが、正直な告白をすると昔はあった。
揉め事や厄介ごとっていうのは本当にまとめてやってくるような気になる。
一挙に押し寄せられて「もうどうにもならん。」と思って「どうやっていきよう」から「どうやったら死ねるだろう」に考えがシフトする。
そして外へ出るのも億劫になってパソコンの前から動かないでただただネットをさまよっているとそういう渦に吸い込まれていきそうになる。
「あ。一人じゃないんだ。」とほっとしたり。
私の場合はそんなことをしているうちにモラトリアム期間が終わり半強制的に社会適応をしなければいけない状態になったので、結果として最後まで行かなかったということだ。

でもニュースを見ていて思った正直なこと。
脱落者が出ないようにみんなの手足を固定していたと報道されたけれどつまりはまだ「考えられる」「悩むことのできる」ひともその中にいたのではないかと思うのだ。
せっかくネットというものを開発してくれた人がいるのだからいい情報に出会い、いい言葉に出会い、いい人に出会い・・・と使えたらと思う。