(可部)明神社 広島市安佐北区可部(かべ)
可部(かべ)町の地名の由来は諸説ありますが、「川ばた」つまり河辺(かわべ)とか河戸といわれ、「港」つまりこの地方が昔入り海であったことから神辺、神部が漢部と変化し「可部」になったとも伝えられています。
鎌倉時代高松城が築かれ、藩政時代には山地と平地を結ぶ渓口(けいこう)集落として交通の要地にあり、宿場、商業町として発展しました。明治22年(1889)年可部町になり、
昭和47年(1972)広島市へ編入されました。
ロケットのような碑は
佐々木省吾(ささきしょうご)顕彰碑
天保十一年(1860)医師佐々木元良の長男として生まれた。
幼少より末田重邨(じゅうそん)に学び、私塾(還革舎)を設立。
知行一致(実践の学)を旨とし多くの人材を養成し幕末から明治にかけて教育界に功績を残す。
門下生から可部町長を多く輩出し、多くの門弟はいずれもこの地方の政治経済文化の興隆に貢献明治三十七(1904)年、顕彰碑を明神社内に建立した。
境内
狛犬は明治の子持ち玉乗り
吽形は玉にしがみつく 阿形は玉の上に乗る
明治二十三年(1890)
合格マンホール
手水
拝殿
拝殿前の水桶は蛙が支える。
屋根瓦
木鼻
拝殿の絵馬七年 明治七年
本殿
神社向かいは明神公園
舟入掘(船入堀)といわれ太田川舟運最大の港だったそうで25艘の舟が係留でき、幅二間、長さ十町あまりの専用掘割で太田川と連絡していました。
向かいの公園の鉄燈籠
文化五年(1808)
俗に鎌倉がたと言われ、円形の正面に奉献とあり六角面で金毘羅大権現の六文字が浮き彫りになっており「ちがいまさかり」「ボタンに唐獅子、唐草」などの絵模様が浮き彫りになっている。可部の鋳物師 三宅惣左衛門延政の代表作
舟入堀は約300年前の正徳三年運航の根拠地として繁栄。
文政二年(1819)町役人が藩庁に提出した文献によると
水たまり一反二歩帆船12石(30俵)積が50艘
発着は大正八(1919)年に廃止され、昭和26年に埋立てて公園になる。
舟板は家の壁板等として利用。