臼山八幡神社 水晶ヶ城(すいしがじょう)
広島市佐伯区石内
城の呼称である水晶城は、後にこの城地周辺から水晶が産出されたために名づけられたとされます。
文献では石道本城もしくは石道新城の呼称があったことが伺えます。
水晶城が石道新城の説が有力です。
石内バイパスを挟んで対面には有井城があります。
こちらが石道本城
切り刻まれて遺構はほぼ無いです。
臼山八幡神社から有木城方面
水晶ヶ城の経緯
平安時代末期、源平合戦の頃には源氏に味方していた佐々木国定が城主となり、
この城に籠って平氏に抵抗したとされる。
戦国時代になると、安芸西部に勢力を伸ばしていたの大内氏の勢力下に入った。
厳島神主家の当主・藤原興親が永正五年(1508)に京都で死去ですると、
大内義興は厳島神主家の所領を接収、永正十五年(1518)に大内氏の重臣の
杉甲斐守が水晶城の城番となった。
大永三年(1523)厳島神主家の一族である友田興神主家の家督を相続できなかったことに不満を持ち、謀反を起し水晶城を攻撃し、城を捨てて逃走した杉甲斐守を討ち取った。
乱の鎮圧後、水晶城には改めて麻生鎮里が城番として入城し、周辺の支配にあたった。
しかし、天文二十三年(1554)に毛利元就と陶晴隆が敵対すると毛利軍は水晶城を攻撃し、
麻生鎮里は降伏した。
毛利氏の支配が確定的となると、この水晶城よりも海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、城の規模が巨大過ぎて多くの人員が確保できないと容易に落城するという面も考慮され、この水晶城も廃城となったと思われる。
縄張り図
標高132mの山の頂上部を主郭とし、麓に向かって曲輪を配置した連郭式山城。
山全体に曲輪や堀切を配置しています。
その城域は非常に広く、多くの兵士が駐屯できるようになっていました。
臼山八幡神社上の郭(黄緑の線)に登りました。
独立した郭で見張り台のような役割だったと思います。
臼山八幡神社脇から道が伸びています。
帯郭っぽくなっています。
郭の上
神社本殿の真上
本殿裏に降りてきました。
今も水晶が城址の看板があります。
2013年には続いて水晶が城本丸まで上がっています。
今では考えられない程元気でした。
神社脇を通り細い木橋を渡り城址へ
少し登ると
うっそうとした竹やぶですが大きな郭が連続しています
いくつも郭を超える。
堀切?
本丸下
本丸
本丸から南へ二の丸、三の丸と続いています
三の丸
武者走り
本丸の東下の帯郭
空堀
水路跡の看板
水路がどこかわからず。
広い道が続いていました。工事用の道路らしい
どんどん行くと
高速の上まで来てしまいました。
登城した経路