津和野藩御船屋敷跡 廿日市市
廿日市天満宮からの景色 右手に宮島が見えます。
正面の道路は旧西国街道
道路の向こうに廿日市本陣がありました。本陣の後方はすぐ海でした。
この辺りは四境戦争(芸州口の戦い)で火災に遭い本陣も焼失しました。
天満宮から東を望む
低い小山が桜尾城跡。 西側に津和野藩御船屋敷がありました。
今はビルが建っている所の前になります。
桜尾城跡
文化八年(1811)頃の地図
亀井隠岐守御屋敷 明治維新前の状況
この碑があるだけです。
この地は寛永八年以降二百四十年間の津和野亀井御舟屋敷の趾なり。
もと石見より上方に至るには海路遠く馬関を迂回す。
ここに於いて亀井藩はここ廿日市の一画を藝藩に借り、御舟屋敷を構え、
以て上方往来の要津とせり。
この一画は、東桜尾山側四十間、北側五十三間西本陣側五十三間、南浜川五十
四間内には舘長屋紙倉あり。また、桜尾山を隔ててその東麓には御舟入あり、
常に御用舟数多を繋ぐ。
而して石州の人士、日夜廿日市の人士と接し、所在の文化経済に寄与すること
多年、今有志相謀り、旧地の一画に碑を建て、由来を刻み以て後世に伝うものなり。
桜尾城の西側に、約2,500坪、23隻の軍用船・関船が停泊することができる、
津和野藩の大きな船屋敷がありました。
津和野藩が参勤交代を行う時や物資を輸送する時は、津和野街道を東上して廿日市に
宿泊、この船屋敷から海路を経て現在の兵庫県に上陸して都に向かうというルートを使っていたそうです。
寛永7年(1630)に設けられた津和野藩御船屋敷。
残念ながら現在は、稲生社と蓮教寺境内に移植されたソテツと石碑だけが当時の船屋敷をしのぶのみで、当時から廿日市が、瀬戸内海を目の前にのぞむ物流や人流の大切な中継地であったことがわかるでしょう。
住宅街の隅に残された稲生社
唯一現場に残された稲生社ですが、稲生社も近々、解体廃絶することになりそうです。
廿日市天満宮麓の蓮教寺
蓮教寺
津和野藩船屋敷由来のものはこの蘇鉄だけになってしまうようです。













