庄原市にある甲山城跡です。

山内氏は相模国山内庄(現鎌倉市)を本拠地としていたが、通資のとき、地毘庄(高野、比和、庄原の一部)の地頭に任じられた。 

正和五年(1316年)、現在の高野町に蔀(しとみ)城を築いたが戦略上から甲山城を築き文和四年(1355)に移住しました。
 
成長して備後屈指の戦国大名になり、室町時代には毛利氏に並ぶ勢力になった。毛利氏の支配下になった天正十九年(1591年)二十世元資が広島城下に移るまで甲山城を居城とした。
                                (現地の看板より)


戦国初期の当主である山内直通は、
出雲尼子氏と周防大内氏・安芸毛利氏との間で、しぶとく独立を保ちました。
また亡命者を多く匿っていました。
塩冶興久(えんやおきひさ):直通の妹婿で尼子氏当主・尼子経久の三男
              経久に対して反乱を起こす

渡辺通(かよう):毛利元就に反乱し殺害された渡辺勝の子
         後に許されて元就の家臣となりました。
         月山富田城の戦いで敗走する元就の身代わりにおとり役を引き受け
         討死します。



直通の子の山内豊通には毛利興元(元就の兄)の娘が嫁ぎ、一時、直通に代わって当主としての活動した形跡が見られますが、父直通より先にこの世を去り、その後は再び直通が当主として活動しました。

天文5年(1536)備後に侵攻してきた尼子詮久に甲山城を一時占領され、
直通は隠居を余儀なくされたようで以後の消息が不明となりました。
直通の跡は外孫の多賀山隆通が継ぎました。


多賀山改め山内隆通は大内側に付き月山冨田城攻めに参加しますが、他の石見勢と共に裏切り
尼子方に付いてしまいます。

しかし敗退中の毛利元就ら一行を甲山城で慰労し家臣を護衛につけて郡山城まで送っています。

元就の娘(五龍姫)の婿、宍戸隆家と血縁だったことから、彼を通じてしだいに安芸の毛利氏に接近するようになり、天文22年(1553)毛利氏に服属するようになった。
毛利家では他の備後の諸将とは別格の待遇を受けて重用されてました。

備後山内氏は石田三成の家紋と同じ「大一大吉大文字」紋も用いていました。
家紋として用いたのは山内氏の方が古く、両家には血縁関係も無いです。

甲山城略測図
周囲にもかなりの数の郭があるのがわかります。
完全に藪化していて本丸周辺以外はよく分かりませんでした。
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案内図
簡単な図ですがこの通り遺構があります。
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城址碑
この横を通って登城します
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土橋
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郭跡?
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登城路
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15分足らずで三の丸に着きました。
思ったよりかなり広いです。
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木が林立し分かりにくいですが
登山道を上がった所が三の丸で奥半分が二の丸です。
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三の丸の取り付け道
藪化していますが大規模な郭があります。
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土塁跡
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二の丸から見た本丸跡
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本丸上。木が多く展望できません。
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本丸上にある櫓跡と思われる段
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三の丸からの展望
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登城口の慈高山円通寺

1324年(正中元年)山内通資によって創建この寺は天文年間(1532年~1555年)に
直道により中興されています。
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本堂内
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雪舟画の雲竜の天上画
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県道よりかなり入った所にあり田んぼの中をカクカク何度も
曲がってやっと麓につきました。

円通寺までの登り道は車の離合が出来ないほど細い道でした。
登城した本丸、二、三の丸は城域のほんの僅かな区域でした。
山全体はおろか近隣の山の尾根まで郭があったようです。

さすがに備後最強の山内氏の城です。