忘れてならない六“死“天安門事件 | 舎人ライナー

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1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。第二次天安門事件。血の日曜日事件。

1989年夏以降、一般に「天安門事件」という場合はこの事件を指す。他の天安門事件、特に1976年4月5日に周恩来総理が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。
略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて、「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」「VIIV(ローマ数字の6と4を並べたもの)」や「82(8の2乗を表す数学記法でその値が64=6月4日)」などを隠語として使うことがある。「1989年」は「民国78年」「平成元年」と変換することもある。
抗議者に対する中国共産党による武力弾圧に対しては国内はもちろんのこと国際社会から痛烈な批判を浴びた。犠牲者の数は1万人を超える(英国政府の公文書)と言われている。

中国共産党の公式発表では「動乱で319人が死亡」となっているこの事件による死傷者については上記の中国共産党による報道規制により客観的な確定が不可能であり数百人から数万人に及ぶなど複数の説があり死者数は定かではない。

ジェームズ・R・リリー(英語版)は自らの著書の中で天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に人民解放軍の手によって死体が集められその場で焼却されたと述べている。また約300名の民主活動家がパリに亡命した。


このところ馬鹿者が天安門事件は捏造だとか、なんとか彰とか言うチャイナマネーで心まで売り払った老害が実は1人も死んでなかったなどと曰わっている。由々しき事態だ。殺され焼き捨てられた人々の魂のまえでも同じことを曰われるのか…きさまらは