われわれは、在らしめる(存在させる)力に抵抗しなければならない。
それは、主語への述語付け、という仕方でその力を及ぼす。
「Sは在る」というとき、Sは、「在る」という述語付けの事後に錯視される。
このように定義するとしても、それは言語そのものや言語の文法のことではない。それは言語において最も明瞭に姿を現すとしても、むしろ言語の文法をも貫く権力、文法のようにして働く権力、といったほうがよい。
歯が痛むとき、内臓がえぐられる時、不安にとりつかれる時、われわれは否応なく主体化される。「これは私の痛みであって痛がっているのは私であり、私は痛がっているのだ」というように。
述語付けは、主に「行為(action)」の主体への帰属(attribution)として為される。彼は傘をさす、彼女は子を産む、私は走り出す、以下同様。
しかし、あらゆる行為に先立って、あらゆる行為の前提として、「存在(being)」という述語がつねにすでに機能している。He is, she is, I am.
彼は在り、傘をさしているのであり、彼女は在り、子を産むのであり、私は在り、走り出すのである、といったように。
そこで、われわれは、「存在」を、特権的述語として扱うことにする。
あらゆる帰属過程に先立ってあらかじめ機能している述語、それが存在である。
存在の、この「つねにすでに」の性質を存在論的性質とよび、この「つねにすでに」の性質が世界の根本原理であると(暗黙的に)想定する立場を存在論とよぶことにする。
われわれは、存在論から脱却しなければならない。
このように述べることさえ、言語を用いて為されなければならず、述語付けという言語の文法の内部に置かれている。したがって、言語という最も不適切な手段を用いて文法を貫く力に抵抗するという、われわれの置かれている立場が、ここでの第一の困難となる。