北条四郎秀時
天文16年(1547年)~寛永12年(1636年)
父:横江定時、母:水野忠政娘(徳川家康の母・於大の方の妹)
姉:秀子(織田信勝の室→従兄・北条次郎宗秀の継室)
正室:久松長家娘(徳川家康の異父妹)
子:康子、正子(堀直寄室)、太郎忠時
執権北条家:北条高時・時行からの子孫・三河北条氏:横江定時の子として出生。
織田家の客将として同行している時分、
御館であった信長から、横江から北条に名乗りを変えるよう指示され改姓
かねてから自身は赤い鎧、兵士にも赤い具足を纏わせて目ざましい働きを見せており
「三鱗赤備隊」を名乗っている。
受領名:越後守
信長から家康の与力を仰せつかり姉川、三方ヶ原、長篠・設楽原、伊賀越え、
天正壬午の乱、小牧・長久手まで家康と行動を共にし数々の武功を立てる。
天正壬午の乱ののち信濃国葛尾城城代2万石。
秀吉臣従後家康の与力を解かれ因幡国鳥取城10万石へ転封。
小牧・長久手で一騎討ちとなり槍傷を負わせた堀秀政と和解のため
次女の正子を堀一族である堀将監直政の嫡男・堀直寄へ嫁がせる。
小田原征伐では東海道より山中城、韮山城の戦いで活躍。
後北条氏一門で氏政の弟:北条氏規を投降・助命に尽力。
小田原合戦陣中で危篤となり「死の床」にあった堀秀政から後事を託される。
朝鮮出兵は、文禄の役、慶長の役ともに後詰としての名護屋城詰めまで。
秀吉死後、上杉景勝の越後から会津120万石への転封に伴い、越後国坂戸城15万石へ加増転封。
その際、坂戸城内の米蔵が判例だった半分を残されておらず空で上杉軍が全部持ち去ったことにより、「このこと」を五大老筆頭だった家康に報告。
他、旧上杉領の領主となった春日山城の堀秀治、三条城の堀将監直政(娘舅)、新発田城の北条次郎宗秀(従兄)も同じ被害を被った。と報告している。
「この一件」が、上杉景勝への上洛要請の文、「直江状」と進むことになるため、「関ケ原の戦い」への発端となった。とも言われる。
なお、この時期「坂戸城介」も名乗っている。
会津征伐・関ヶ原では東軍に所属。
長男の忠時には兵250名を与え、徳川秀忠率いる中山道軍に従軍させている。
自身は長女・康子を従えながら兵3500名で家康率いる東海道軍に従軍。
東軍外様武将たちを追いかけるように南光坊天海とともに江戸城を発ち東海道西上。
清州城での軍議で東軍外様武将たちに「自由である身」を説き、
織田秀信居城の岐阜城攻めを催促する。
関ヶ原での本戦では徳川本陣の右前に3500名で布陣。
前半・中盤は徳川本陣護衛、黒田・細川・京極陣営の連絡、山内陣営の監視を担当。
終了間際の敵方・島津義弘撤退時は松平忠吉、井伊直政、本多忠勝に続き南光坊天海とともに追撃に参加。
負傷した松平忠吉を救護しながら徳川本陣までの撤退に尽力。
関ヶ原での勲功から近隣の与板城、新発田城を含む越後国新潟城20万石へ加増転封。
家康の妹婿・義弟でもあることからこの時期に松平姓を賜る。
江戸幕府下における初代新潟藩主となる。
このとき、位階は少納言となっていたため、別名:新潟少納言兼越後守。
とも呼ばれることになる。
関東から越後を結ぶ三国街道の整備、江戸に大水をもたらす利根川の常陸国への東遷事業に
長きにわたって尽力。
一方で、佐渡金山奉行に就いていた大久保長安の没後の不正蓄財を見つけ、家康に報告。
長安一門への厳罰措置を除いた事件の後始末を任される傍ら次の佐渡金山奉行に就任。
出雲崎港に加え新潟港、寺泊港の整備にも着手し、越後から関東への海産物貢納にも携わる。
大久保長安事件が落着し、越後国の街づくり諸々の事業が軌道に乗ったことを見て、
新潟藩主を嫡男・北条太郎忠時に譲渡。
自身は、家康の隠居先である駿府城下の屋敷に移り、
大御所・家康の下で江戸幕府の政務に携わる。
大坂の陣では冬の陣、夏の陣とも新潟藩主力3700騎を将軍・秀忠につく現当主・忠時に預け、
自らは300騎を率い大御所・家康の傍らにつく。
夏の陣で真田信繁(幸村)に攻められ家康が窮地のとき、天海とともに守り通し、これを退けた。
家康没後に出家。
北条出雲庵宗康(ほうじょう・いずもあん・そうこう)と名乗りを変え、駿府から江戸に移った。
家康、秀忠、家光と3人の将軍に仕えた戦国武将の生き残り。
寛永12年(1636年) 新潟藩江戸館にて数え年90歳で没。
島原の乱が起こった前年のことだった。
・・・というところがキャラクター設定。
スマホ用オンラインゲーム「新信長の野望」 41鯖の同盟「極楽桜花」所属です。
どうぞ。よろしくお願い申し上げます。