甲状腺のわずかな異常や、腎臓の働きの弱まりといったものが、やがて花粉症のような症状として現れてくることはあるのでしょうか。もし人間の身体と心の関係を少し深く考えるなら、そこには単なる身体的な原因だけでは説明しきれない背景があるのではないか、と感じることがあります。
例えば、幼少期のある出来事を考えてみます。まだ幼稚園に通い始めたばかりの頃、楽しみにしていた遠足の日に、お母さんが作ってくれたお弁当をうっかりこぼしてしまい、一口も食べることができなかった。大人から見れば取るに足らない小さな出来事かもしれません。しかし幼い子どもにとっては、その遠足は大きな楽しみであり、お弁当には母親の愛情が詰まっていると感じていることもあります。その楽しみが突然失われたとき、子どもの心の中には強い悲しみが生まれることがあります。
その後、もし母親が病気で入院するような出来事が起こったとしたら、幼い子どもにとってそれは自分ではどうすることもできない深い不安と悲しみになります。やがて母親は回復し、再び元気な日常が戻るかもしれません。しかしその子どもの内面には、「どうすることもできない悲しみ」の感覚が静かに残ることがあります。
その後、小学校に進み、友達関係の中でいじめのような経験をしたり、人間関係の中で孤独を感じたりすることがあるかもしれません。さらに時が経ち、高校を卒業する頃に、好きだった人に振られてしまうような出来事が起こることもあります。人生の中には、「思ったようにはいかない」という経験が何度も訪れます。
こうした出来事そのものは、誰にでも起こり得るものです。しかしもし最初の幼い頃の悲しみが十分に受け止められず、誰にも表現できないまま心の奥に残っていたとしたらどうでしょうか。その悲しみは解放されることなく、心の奥で静かに固まっていくかもしれません。
精神科学では、このような感情の動きを「アストラル体」の働きとして考えます。深い悲しみが訪れると、人の内面はぎゅっと縮み込むような感覚になります。もしその悲しみが表現され、誰かに受け取ってもらえれば、やがて心は再び開いていきます。しかし、悲しみが誰にも語られず、理解されないまま残ると、その収縮した状態が一つの癖のように身体の中に残ることがあります。
最初の遠足の日の悲しみが解放されないまま心の奥に残り、その後の出来事がそこに重なっていくと、人は本来なら乗り越えられるはずの小さな出来事に対しても、より深く傷つくようになることがあります。小学校での苦しみも、高校での失恋も、表現されないまま心の中に積み重なっていくと、アストラル体は縮んだままの状態を続けてしまうかもしれません。
もちろん人生には、そうした悲しみを補う喜びもあります。楽しい出来事や目標、やりたいことや夢、人との温かい関係があれば、心は再び広がり、生命の力は回復していきます。そのような力が人生の中に豊かに存在していれば、悲しみが身体にまで深く影響することは少ないでしょう。
しかしもし、そうした喜びや希望が十分に育たず、心の収縮が長く続いたとしたらどうでしょうか。精神科学の観点から見ると、そのような状態が長く続くと、やがて身体の生命活動にも影響が及ぶ可能性があります。腎臓の働きが弱まったり、甲状腺のリズムが乱れたりすることがあり、その結果としてアレルギーのような形で身体が外界に過敏に反応することもあるかもしれません。
もちろんすべての病気がこのような経過で生まれるわけではありません。しかし人間の身体と心は深く結びついており、人生の中で経験する悲しみや喜びが、長い時間をかけて身体の状態に影響を与える可能性は確かにあるのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、子どもの小さな悲しみを「たいしたことではない」と片付けるのではなく、その気持ちを受け取り、共に感じてあげることはとても大切なことになります。なぜなら、その一つ一つの経験が、人の内面の広がりを守り、生命の健やかな流れを支えているのかもしれないからです。
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