村井秀夫刺殺事件と北朝鮮⑥「徐と北朝鮮を深追いすると声明の保証はできない」 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

徐と北朝鮮を深追いすると声明の保証はできない

 

田村建雄氏

 

オウム真理教科学技術省長官だった村井秀夫氏が刺殺されて以来、オウム真理教は様々な噂に取り囲まれた。オウムになぜ、それだけの噂が出るのかを考える上でも、敢えて、”タレ流”された情報と取材の過程をジャーナリスト・田村建雄氏にレポートしてもらった。

 

 

連日のように出てくる一連のオウム報道のベースは警視庁からの公安情報であり、一体どこまで事実なのか検証しきれない。

 

その一方では貝のように閉ざされてしまった公安情報がある。最初の一報で続報がピタリと途絶えた情報だ。それは主にオウムの「闇側」と囁かれてきた人脈、関連事項に圧倒的に多い。例えば巷間囁かれた暴力団関係筋、他宗教との関わり、そしてオウムと諸外国との接点などなどだ。深い闇の中に吸い込まれていくように消えてしまった公安情報。その背景にはいったい何があるのか。

 

その典型的な例にオウムと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の関係がある。

例えばオウム科学技術省長官の村井秀夫氏刺殺犯、徐裕行容疑者である。徐容疑者は当初オウムの行動に義憤を感じ村井氏を刺殺したと供述。しかし、その後、指定暴力団山口組系羽根組(解散)幹部が徐容疑者の共犯として逮捕されるや同容疑者の供述は額面どおりには受け止め難くなっている。村井氏刺殺のみを企画した誰かが差し向けたヒットマンという見方が強まっている。一部オウム説も流れた。が情報もここまで。同容疑者に関しては、事件当初の情報を除けば、なぜか、続報はプツリと途絶えたままだ。

 

徐容疑者とは一体何者なのか。この疑問にもとづき同容疑者を丹念にたどっていくと、そこには「北朝鮮」というキーワードで結ばれる不思議な符合に気付かされる。

 

(徐が生まれたとされる群馬県桐生市)

 

徐容疑者は韓国籍である。同容疑者は65年群馬県桐生市に生まれている。68年、親が朝鮮籍から韓国籍に変更した。

 

さらに徐容疑者が事件当時、寝泊まりしたとされる貸し手に繋がる人物のひとりは、かつて日本を部隊にした北朝鮮の大物スパイ辛光洙と何年か生活を共にした女性、朴春仙氏の一族でもあった。

 

もちろんオウム事件にもスパイ事件にも、前記の断片的事柄がストレートに繋がっていると断定できない。ただ、このようにオウム事件の点を追っていくだけで必ずといってよいほど「北朝鮮」の人脈に交差する。これをどう受け止めればいいのだろうか。

 

いくつかこの他の例を挙げてみよう。

 

私は数字が羅列され英文字の頭文字、人名が詳細に記された奇妙なB5判サイズの数枚のペーパーを入手した。そこには一連のオウム報道で見慣れた氏名が続々と登場する。

 

例えば次のようだ。

 

93.11.21 SU576。F松本智津夫…松本知子、村井秀夫etc。(成田ーモスクワ)

 

「松本智津夫」は麻原彰晃容疑者の本名である。このペーパーは明らかにここ3〜4年のオウム真理教信者の海外渡航記録の一部であることは間違いない。

 

注目すべきは一覧表からも読み取れる早川容疑者の海外渡航歴のすさまじさである。92年から今年3月(筆者注:1995年)までの海外渡航歴は29回、出発は93年9月2日に大阪からシンガポールに一度飛んだ以外は全て成田発。トータル257日。中でもロシアへの渡航歴は21回を数える。

 

「調査したところ、この21回のうち実は13回、ウクライナ経由で北朝鮮に入っている」とある公安関係者は証言した。

 

そしてウクライナ。同国は今、武器マフィアの間では密かに「ウクライナに行けば政府管理の行き届かない旧ソ連時代の残滓ともいえる数万発の中距離核弾頭、核燃料となるウラン鉱、そしてロシアから流れたAK74型自動小銃などあらゆる武器が金次第で調達できる」といわれている。早川容疑者がこのウクライナを経由し北朝鮮に入国していたのだ。まさに刮目すべき情報だ。いわゆる早川ノートにも次のような記述が見える。”政府高官tp接触 武器ひとつに40万ルーブル”。当時のウクライナの通貨はルーブルだ。さらに早川容疑者のロシア行きの行動を再チェックしてみると奇妙なずれに気付く。

 

94年3月15日SU(アエロフロート)576便のビジネスクラスでモスクワ発で帰国予定だった。が実際帰国したのはそれから一週間後の3月26日。この1週間の帰国延期は何を意味するのか。

 

このように早川容疑者の渡航には当初の予定と実際の帰国が突然1週間ぐらい大幅にずれることがしばしばである。

 

私は前出の公安関係者に、モスクワに入った早川容疑者が突然帰国延期する時期が北朝鮮への入国時期か、と問うた。しかし、彼は一切答えなかった。

 

 

オウムは北東アジアの武器商人になろうとしていたのか

(オウム真理教と中国共産党)

 

(当時の上海。開発が始まって間もない頃)

 

94年2月22日のことである。肌をつきさすような寒風。中国の上海港。そこに成田発の便から奇妙な服装をした一行がゾロゾロと降り立った。オウム服に身を包んだ麻原彰晃容疑者一行だった。

 

95年6月某日。ある日本の中国関係者A氏が次のような驚くべき証言をした。

 

「私がある中国の政府関係者と電話でやりとりしていた。そうすると……」

以下、その会話である。

 

ー「日本にはオウム騒ぎで大変。彼らがロシアに行ったことであそこも大変だ。」

 

「フフフ……」

 

ー「何を笑っているのですか。」

 

「彼らは中国にも入ってる」

 

ーエーッ。いつ、誰が!

 

「麻原彰晃たちだ」

 

ーどこが招聘したのか。

 

「表向きは観光だが実際は招聘先があったようだ。あそこですよ、あそこ。中国側では布教活動は市内という一札を取って入国させたようだ」

 

ー中国国際友好連絡会?

 

「フフフ……献金もしたようですよ。3000万円と聞いていますがね」

 

ー彼らの目的は。

 

「鄧小平の三女に会い鄧小平に会いたいと申し出たそうだ。がそれは断られた」

 

ー三女は確か友好連絡会の副会長?

 

「これくらいで勘弁してくださいよ」

 

A氏の会話は概ね以上だ。

その後の調べで、この時の上海ツアーは表向きは明の初代皇帝、朱元璋の足跡をたどるツアーだった。参加者は麻原容疑者に早川、井上嘉浩、林郁夫の各容疑者とサリンを持って逃亡中とされる林泰男容疑者だった。彼らは鄧小平に会えないと分かると上海市内をブラブラ、予定を早めて同月26日帰国。

 

 

A氏は彼らの動きをこう分析する。「友好連絡会は中国政府対外連絡機関。バックには中国解放軍など軍関係者が多い。鄧小平の二女の夫はやはり軍関係のビジネス機関、新興公司の総経理、つまり社長をしている。どう考えても麻原たちは何らかの形で中国の軍関係者と接触を図ろうとしていたのは否定できない」

 

このA氏との話の直後、某防衛庁関係者と接触する機会を得た。仮にT氏とする。T氏は独自のルートで得た情報をもとに早川容疑者の狙いを喝破、次のように断言した。

 

「早川の狙いはズバリ、北東アジア、ウクライナなどを中心に第三国への武器輸出など武器商社のようなものを作ることだった。ウクライナをベースに北朝鮮には核関係のウランなどを持ち込み、物々交換で北の武器また他国に流して利鞘を稼ぐ。中国はすでに、ある大物の親族関係の商社と武器を介在して深い関わりを持ちつつあった。そしてロシアはロシアで、その武器をテコにある勢力がオウムを利用して日本の中に一定の政治勢力を築こうとしていた。それが早川の度重なる海外渡航、北朝鮮入国の基本的動きと見て間違いない」

 

(北京五輪・長野聖火リレーに現れた中国人。手元には麻原とダライラマの写真。)

 

一連の取材後、ある公安関係者に、なぜオウムと北朝鮮との関係が閉ざされてしまったのかと質した。しばしの沈黙の後、やっと彼は重い口を開いた。

 

「……もう、それは当局としてはやる気はないという感じだ。国の問題もあるし。・……それに、すこしスパイもどきの荒唐無稽の話が多すぎる……」

 

ーそれじゃ、早川容疑者は何のために北朝鮮へ入ったのか、それとも本当は入ってないのか。

 

「……」

 

ロシア、中国にみられるように、90年代に入って旧社会主義圏は国家がらみの犯罪が横行している。その理由として、国家財政の破綻によって各組織が独立採算になり、どんなことでもするようになったからである。数年前より国民はおろか軍隊の食料も賄えなくなった北朝鮮においては推して知るべしである。

 

だが、点と点を結ぶために取材を続ける私に公安関係者はささやく。

 

「徐と北朝鮮を深追いすると生命の保証はできない」

 

こうして浮かび上がった点もまた闇の中に消えて行くのかー。

 

(参考文献:SAPIO 1995.7.26号)