われ秋田人

われ秋田人

「雨ふればわが手に集まる滴たち天の恵みか吾の涙か」
   ❇2019年千葉から秋田に帰りました❇

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 奥州藤原氏は奥州合戦において滅ぼされ、その臣従であった…秋田の英傑「大河兼任」も鎌倉方に一矢を報わんと蜂起するも、やがて関東武士団にやられ、歴史の闇へと消されて行った。

 今日はその奥州合戦の勝者であり、やがて鎌倉幕府を創設し「武士の世」を切り拓いて行った頼朝たちが見た「夢」について少し語りたい。

 

一、やがて源頼朝の妻となる北条政子は、父親の決めた婚約者「山木兼隆」の館を脱出して伊豆走湯山に逃れると、恋人の頼朝も知らせを聞いて駆け付けた。二人は山内の宮寺で一夜を過ごす。

 

 その時に頼朝の従者「安達(藤九郎)盛長」は不思議な夢を見た。

 

 夢にあらわれた頼朝の姿は、「筥(箱)根山」の上に立ち南面して、小松三本を粧(かざ)しに、左右の袂には「月・日」を宿し、左足は「奥州外が浜」を、右足は「西海鬼界が島」を踏まえていた。

 

 「月・日を宿すは主上(天皇)・上皇の御後見となり、日本秋津島の大将軍となる前兆、粧しの小松三本は…三代にいたるまで天下を掌るべき示現なり」と占われた。

 

 そして、外が浜・鬼界が島を踏まえるという所作が、日本六十余州の東西の境をきわめ、卒土の内を「飽くることなく知行」「残すところなく進退」することはいうまでもない。

 

 (妙本寺本「曽我物語」)

 集英社版 入間田亘夫著 「武者の世に」 にはそう書かれていた。やはり安達(藤九郎)盛長の「夢」は正夢であったのだろうか。

【ブルーメッセあきた 2021「ポインセチアタワー」行って来ました】/2021年12月14日/秋田県潟上市/道の駅昭和/クリスマスムード一色でした。

 

3分38秒から…A温室「クリスマスルーム」で撮影者(私)のダンスが始まります♪クリスマスにちなんだものです。笑ってやって下さい♪

 

 

【ポジティブ】

 イタリアのオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティのことを久しぶりに思い出した。

 

 彼はすでに2007年には天国に召されているのだが、今回とあるきっかけで十数年振りに彼のCDを何度も聞くことになった。2003年に売り出された盤だから、彼の絶頂期のものだ。

 

「オーソレミーヨ」の楽曲に入ると涙がこぼれた。心を晴々とさせてくれる。とりわけ自らの心身の晴れやかさを保つのに気をつかい、並外れた純粋さとポジティブなエネルギーを持つパヴァロッティは、私の心を充分に蘇らせてくれた。

 

 私とパヴァロッティとの出会いは、いったいいつだったのかは思い出せない。気が付いた時に彼はもう私の中に存在し、人々からは「人類の宝」とも呼ばれていた。

 

 私がパヴァロッティのことを思い出すきっかけとなったのは、11月8日の魁新報の読書欄で紹介されていたエドウィン・ティノコ著「パヴァロッティとぼく」である。

 

 早速購入した。

 

 元ホテルボーイだった「ティノ」がパヴァロッティに見込まれて専属のアシスタントとなったのだが、その彼がマエストロ(大音楽家)のパヴァロッティの最後の日々を綴っている。

 

 実は単純にその表紙の(足の裏を見せている)明るい写真にほれ込んで購入したのだが。

 

 本当のことを言うと、買ったのは良いが、読んだのはほんの数ページ。 

 

 「積ん読」の状態であった。

 

 その理由は…確かどこかにある筈のCDを探し出し、彼の「肉声」を聴いてからと思ったから。

 

 それともう一つは、あまりにポジティブな人と接する時は、自分自身もよほどの決意とエネルギーがなければ対峙出来ないと思ったから。そうしてのらりくらりしていた。

 

 ところが、そうこうしている内に実は私に大事件が起きてしまった。

 

【戸嶋靖昌展でネガティブを受ける】

 12月1日、かねてからテレビ・新聞等でも何度も宣伝されていた、秋田県立美術館にて開催中の「戸嶋靖昌(やすまさ)展―縄文の焔と闇」を観覧に行ったのである。

 

 すでに10月24日から開催されているのだから観に行った人も多い筈。

 

 主催は…秋田県・AKTを始め、後援をみると駐日スペイン大使館・武蔵野美術大学・秋田市、秋田の各放送局・各新聞社等、数々の、それもそうそうたる団体や企業名が続く。

 

 私との共通点もある。戸嶋靖昌氏は、私と同じ北秋田市の出身。坊沢の旧家出身だ。

 

 私の高校時代の旧友(秋田市在住)もすでに一度展覧会を見て気に入り、一週間ほど前に行われたギャラリートークにも予約までして参加して来たとのこと。

 

 彼は、戸嶋靖昌の絵画を前にして酒を飲みたい(一献傾けたい)というくらい気に入ったらしい。

 

 自分もその旧友には「必ず見に行くから」と約束もしてしまっていた。

 

 まずはAKTで放映された「ふるさと秋田再発見シリーズ 秋田人物伝―戸嶋靖昌―」を録画しておいたものを視聴し、心の準備をした。

 

なぜ「心の準備」が必要かというと、あまりにもネガティブなものを見る時は、ポジティブな人と接する時とは別の意味での「心のバリヤー」が必要だからである。

 

 戸嶋靖昌は、1970年の三島由紀夫の自決事件が彼自身の人生における大衝撃となり、やがて地位や名声を得る道を捨て、純粋に芸術を追求する決意をした。

 

 要するに「売れる絵描きとしての道を捨てた」ということ。さらに端的にいうと、絵画による収入の道を自ら断ったのである。

 

 これは私に言わせれば「絵描きの自殺」に等しい。

 

 1974年スペインに行けたのは妻の仕送りがあったから…

 

 20年以上に及ぶスペインでの生活の終わりは、やがて妻の死によって仕送りが途絶えたことによると言う。

 

 絵を売ることを知らない。

 

 妻の仕送りだけで長い年月外国で暮らしていた。

 

 これを単純に「人」として見るならば「穀潰し」である。

 

 これ以上の人間としてのネガティブなど他にあるだろうか。自分だったら絶対に受け入れられない。

 

 それもポジティブな感覚によって、人の心を明るくするような作品を遺したのならば価値もあろうというものなのだが、彼の内面と、その結果としての作品は「焔」であり「闇」なのだ。

 

 それも誇らしく「未完」を謳う。

 

 いや未完を謳ったのは、最晩年に知り合った「執行草舟(しぎょうそうしゅう)」という実業家の言い分である。

 

 穀潰しの画家に心許させ、遺した(売っていない・売れない)「絵」を自分の手元に蓄え、戸嶋靖昌の最晩年の死の瀬戸際まで自らの肖像画まで描かせ、パトロンとなり、「これが芸術だ」と称揚し、大学教授まで使い絶賛させる。

 

 「これが商売さ」と言われればそれまでなのだが、私に言わせれば悪徳商法。地面にある岩石を持ち上げ「これには何万年もの歴史があり霊力があるから」と高額な値段で売りつける霊能商法とどこが違うというのだろうか。

 

 百歩譲って、武蔵野芸術大学を出ているからと言っても、私からすればおこがましい。

 

 縄文という言葉さえ、今になって秋田の「北海道・北東北の縄文遺跡群」にあやかったものである。戸嶋靖昌氏が「縄文」を意識して「絵」にしていたということは執行草舟氏の作り話とも言える。

 

 戸嶋靖昌氏の言葉として証言出来る人間は他にいないのだ。

 

 執行草舟の肖像画こそおぞましい!

 

 いや無意識だったにしろあんな溶岩が地中で固まったような絵が縄文と何の関係があるというのだろうか。

 

 縄文の遺跡、特に花輪の環状列石や伊勢堂岱遺跡が「未完成である」と言ったのは、日本の考古学者小林達雄氏である。

 

 その受け売りや、あやかりなどはやめて欲しい。ましてパンフレットなどで執行草舟氏がゴッホとの対比を何度も言葉にする自体おかしいではないか。

 

 県立美術館の展示回廊のなか私は酷く彷徨った。

 

 私の心は…地獄か、深く湿った地下洞窟の闇の中にいて、一条の「光り」を探すかのように。腐乱した死体がそのまま溶岩と一体化し、死臭さえ漂う。

 

 私はそのグロテスクに打ちのめされていた。

 

 その闇の中で私がずっと思っていたのは、子供の頃に父さんと母さんに連れて行ってもらった八森の「岩舘海岸」。

 

 同じ棘々しい溶岩の塊であっても、そこには美しい海があり、青い空があり、その青い空には白い雲がぽっかりと浮かんでいた。

 

 岩場にはヤドカリや、水中には見たこともない魚たちやイソギンチャクがいた。そう「生命」が満ち満ちて輝き溢れていたのである。

 

 そんなことでも思い出さないと、吐き気がしておぞましく身震いして身が持たなかった。

 

 やっとのことで出口に向かい私は帰路についた。

 

【ホジティブへの復活】

 自宅に戻り、一番に行ったのは、ルチアーノ・パヴァロッティの音楽CDを取り出し、彼の「肉声」を聴いたこと。

 

 そしてティノ著の「パヴァロッティとぼく」の本を手にしたことであった。私はパヴァロッティの明るい顔と、明るい足の裏の写真(?)を見て闇から生還することが出来た。

 

 彼の明るい歌声はすべてのネガティブを凌駕し、中和させ、ポジティブな光りで包み込む不思議な力がある。

 

 芸術という名のネガティブにはご用心。また芸術という名の下に、ネガティブな絵を描く人を「進歩的」であり「文化」だと思わせる姿勢は危険な発想でもある。

 

 私の場合はパヴァロッティの「華麗な歌声」によって救われた。皆さんにもお勧めしたい。

 


 8月、わが家の庭の小さな水鉢に、雨ガエルが卵を産んだ。すぐに小さなオタマジャクシが生まれた。


 間もなくカエルになるのだろうと思って楽しみにしていた。しかし、


 9月になってもカエルにならない。10月になってもそのままだった。「ちょっと変だぞ」と思った。栄養状態が悪いのだろうか。


 11月にも入り、気温も下がり、当然のように水温も下がって来た。
 このままでは皆死んでしまう…「大変だ!」と思い、小さな水槽があったので私はオタマジャクシを救出することにした。


 砂利を敷き、玉石を置き、庭の落ち葉を入れて、オタマジャクシの家とした。
 翌朝は冷え込み、水鉢には薄氷が張っていた。すんでの所で間に合ったのだと思う。


数えてみたら三十匹ほどいる。可愛いではないか。母の部屋に置くことにした。


 今年90歳となった母は、春5月、背骨の圧迫骨折を患い、最近痛みはなくはなったのだが車椅子の不便な生活である。自分の意思で外出さえも出来ない。


 母はこの小さな命に「おたまちゃん」と命名し顔をほころばせた。


 何を食べさせたら良いのだろうか。手元の図鑑で調べてみると、金魚の餌か、ほうれん草でも良いと書いていた。


 しかし、金魚の餌をやってみても本当に食べているのか、どうかも分からない。
私は妻に「ほうれん草をゆでてくれ」と頼んだ。


 すると妻は「ほうれん草は昨日お浸しにして食べちゃったでしょ」と、庭で作っていたカブを収穫して、その葉っぱをゆでてくれた。


 おたまちゃん、なんとそれを「食べた」のである。ゆでた葉っぱを水槽に入れておいたら、ひと晩で葉の葉脈だけを残して穴だらけにして食べてくれていたのである。


 嬉しかった。動物であれ、人間であれ、爬虫類であれ、両生類であれ、準備したものを食べてくれるのはとても嬉しいもの。


 母も心から癒されているようだ。


 水温は、室温と同じ23℃である。母におたまちゃんと名付けられた三十匹もの子らの中には、ちゃんと後ろ足が生えて来た子もいる。


 私はやがてカエルになることを前提として、丸い石を積み上げて、落ち葉も重ね、ちゃんと「陸地」も作っておいた。


 今日10日目。いつの間にか前足が出ている子を見つけた。体調は2㎝ほどしかない。
図鑑をもう一度調べてみると、前足が出て来る頃には、えら呼吸から肺呼吸に切り替わる。「陸地が無ければ溺れる」とも書かれていた。準備万端大丈夫だ。


 図鑑を置いて、もう一度水槽を見てみると、なんとビックリ、その子がちゃんと石の葉っぱの上にちょこんと座っているではないか。


「カエルになったぁ!」。家では…母と私と妻の三人しか家族がいないのだが、私たち家族は子供のように喜んだ。


 さあ大変である。


 12月にも入り、もうじき雪も降ろうかというときに、その子らがカエルになったからといって庭に放してやる訳にも行かない。


 さて次は、雨ガエルになった子への餌付けである。図鑑には「生餌」しか食べないとあった。
「えっ活コオロギが必要?」大変である。外はもう冬、コオロギなどいる筈もない。


 私は早速ネットで最短で届けられるSSサイズの活コオロギを見つけ注文した。到着は2日後である。とりあえずは金魚の餌をすりつぶして目の前においてはみたが食する気配などはない。到着するまでは絶食か?


 2日後くらいには、続々と雨ガエルになってしまうのであろう。

「おたまちゃん、待ってくれ!」間もなく2ミリほどの活コオロギが100匹は届くのだから


 

 夢をみた。

 どんな夢かというと…何か自分に対する送別会のような、歓迎会のような、大きなステージがあり、次々と私を喜ばせてくれるような出し物が続く。

 画一的だと思った。画一的な理由は、おしなべて静かだし一方向的だったから。

 私はそれを打ち破らなければならないと思った。感謝の気持ちを込めて。私以外にも聴衆はいるのだ。その人たちのためにも。

 私はマイクを借りて…「カラオケはありますか?」と聞いた。
「あります!」即座な答えだった。
「リクエストがあれば私が何でも歌いますよ」と。

 見知った青年が笑顔で声を上げてくれた。
「社長《あの花のように》をお願いします」と。ニコニコしていた。

「わかったぁ歌うよ!」

 早速大きなステージに映像が投影されカラオケのイントロが和やかに始まる。
 本当に自分はその歌を知っているのだろうか。歌えるのだろうか。自分は勘違いしていないだろうか。
 きっとあの歌だろう…とメロディーと歌詞が浮かぶ。
「もし違っていたならら、笑顔でリクエストしてくれた青年と一緒に歌えば良い」と思った。

 目が覚めた。朝の5時だった。思い出した。

「リクエストしてくれたのは私が最も信頼をおいていた従業員の一人だった」

 笑顔が良い。裏表なくよく働いてくれた。懐かしい。確か奥さんと二人、赤ちゃんが生まれたからと私に見せに来てくれた。
 子どものいない私はとても幸せな気持ちになったことを思い出す。

 枕元にあるスマホを手に取り、調べてみることにした。

 「あの花のように」と検索してみた。
《あの花のように/夏川りみ(ドラマ「フルスイング)エンディングテーマ」と表示された。

 やはり思っていた曲とは違うものだった。

 動画配信ソフト「ユーチューブ」でその音源を確認してみた。

 懐かしい夏川りみさんの声、詩も、目で追いかけてみた。

 なぜか自然と涙があふれて来た。この曲は人への応援歌なのだ。

 何か耳にはしたことはあるのだが、覚えている曲とまではいかない。

 説明をみてみた。作詞・作曲masumi、編曲井上鑑。2008年NHKで放送されたドラマ「フルスイング」のエンディングテーマとあった。

 そして驚いたことに、この「フルスイング」は元プロ野球選手、高畠導宏さんの壮絶な生涯をモデルにしたドラマだったのだ。

 私は野球に関しては全く詳しくないのだが、何かそんな人がいて、そんなことがあった、ということだけは覚えていた。

 説明を読んで、繰り返し夏川りみさんの歌声を聞いて、再び涙がこぼれる。

 ユーチューブでの説明をぜひ紹介したい。

 高畠導宏氏は、1967年、南海ホークス(現、福岡ソフトバンク・ホークス)に入団するが、翌年のオープン戦前日の練習中に左肩脱臼という野球選手にとっては致命傷を負い、開幕後は怪我との闘いの日々が続き、ほとんど出場機会もないまま、代打として僅か5年間の現役生活を終えた。

 引退後は南海ホークス、ヤクルト・スワローズ、ダイエー・ホークス、中日ドラゴンズ、オリックス・ブルーウエーブ(現、オリックス・バッファローズ)、千葉ロッテ・マリーンズで名コーチとして活躍。落合博満、イチロー、広沢克己、池山隆寛、小久保裕紀、田口壮、サブロー選手などを育て上げ、当時のヤクルト・スワローズ監督、野村克也氏を凌駕する名匠といわれたが、58歳で無慈悲にもコーチの職を解かれた。

 その後、教員免許を取得し、福岡県太宰府市の筑紫台高校社会科教諭兼、同校野球部監督に就任。その人柄から球児や周囲の誰からも慕われ、愛される熱血監督として甲子園出場を目指していた。そのさなかに、体調の異変を感じ、検査の結果、膵臓癌が肝臓に転移した進行性の癌と診断され、2004年7月1日、帰らぬ人となった。60歳だった。

 それから3ヶ月が経った10月1日、海の向こうではイチロー選手が、84年間破られなかったジョージ・シスラー選手の年間最多安打記録を塗り替える大快挙を成し遂げた。イチローも高畠氏の教えを受けた選手であることを知る人は少ない。

 おそらく、高畠氏の魂が時空を超え、イチロー選手に伝わったと信じたい。

 甲子園出場への夢の途中、チームのユニフォームのデザインも手がけた高畠氏だったが、完成したユニフォームは、旅立つ高畠氏の亡骸とともに荼毘に付された。

 生涯を黒子として、だが、熱く尊い人生を送ったひとりの野球人、高畠導宏氏の、深く心に残るドラマだった。

◆参考文献・資料 門田隆将著 「甲子園への遺言〓伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯」講談社刊。(文責:Kaoruko Haramoto)とある。

 ほとんど知る筈もないこの楽曲を、その青年は夢の中で私にリクエストしてくれたのだ。

歌 夏川りみ/
作詞 masumi
「あの花のように」

 この詩を、夢の中で笑顔で私にリクエストしてくれた青年に、夏川りみさんのように、心の応援歌として口ずさんでみたい。

ねえ、もしも
ふと、あなたが
何かにつまづいた時
そばにいて支えられる
やわらかな花になろう

長い坂道の途中
立ちどまることもある
そんな時には
背中をおす追い風になる

あの花のように
きびしい冬こえ
やがて春に花咲かそう
あの風のように
あなたをつつんで
未来へ続く坂をこえよう

ねえ、きっと
あなたのその涙は
そう、いつの日か
大地に降る雨となり
やがて花開くでしょう

はるかな旅路の途中
夢やぶれる日もある
そんな時には
そっと肩抱く陽だまりになる

あの花のように
悲しみ乗りこえ
笑って咲く花になろう
あの風のように
あなたをつつんで
終わらない夢探しに行こう

あの花のように
きびしい冬こえ
やがて春に花咲かそう
あの風のように
あなたをつつんで
未来へ続く坂をこえよう

 

 心に染みる曲である。リクエスト、君にありがとう。未来に続けたい。
 

あるがまま
生きて目指すは
浄土なり
すこし時あり
商いをする

            

  平成30年8月3日(金) 北秋田市 秋北新聞に投稿 掲載

                                    菊地英雄

 

 「商道施心居士」 二年前早くにあの世に旅立たれた北秋田市鷹巣の乗運寺前ご住職黒瀧隆志さんの最後のお仕事として付けて頂いた私の戒名。

 

 私は単なる商人(あきんど)である。院号などいらぬは私の考え。生きて得度し仏の道に修行せよという和尚人様の導きだった。

 

 私の生まれは上小阿仁村。昭和31年同村中茂に生まれた。当時営林署の担当区主任だった父は私の母とわが子を連れて昭和32年鷹巣で商売を始めた。今でいう脱サラである。

 

 戦後も終わりやがて高度経済成長期へと。父と母そして私と妻は鷹巣町を本拠地として地域の消費者の生活の向上に少しでもお役に立てるようにと奮闘し、あの不便な時代に一定期間は貢献出来たものと私は自負している。

 

 私の父は良き妻と後継者に恵まれた。しかし私たち夫婦には子が授からずいつかは断念せざるを得なかった。

 

 会社は平成17年他者に譲る。平成20年父も他界。商売人だった。

 

 10年が経過し私は千葉は房総半島で商いをしている。妻に助けられ母を見届けしながらの商売。後継者もなくいつかは辞める商売ではある。しかし人に社会に貢献できることは人生の喜びであり修行ともいえる。

 

 広大無辺な関東平野。千葉県だけで人口600万人。公共交通体系もほぼ無いような砂漠に人は無数に生きていた。

 

 クルマが無ければ絶対に暮らせない無限地獄とは言い過ぎだろうか。

 

 この地ではボロボロのガスガスの車でも平気で走らせている。点検はしているのだろうか。修理はしないのだろうか。

 

 ええカッコしの秋田では決して考えられない光景である。

 

 狭い盆地や沢伝いに人が暮らす秋田と違い、広大な千葉においては走行しなければならない距離も何倍も違う。

 

 クルマは普段履きの下駄のような扱いである。もちろんステイタスや個性を発揮するものでもあるはず。しかし一生新車とは無縁の人たちも多い地域。

 

 2年前に茂原市で商売を始めた。

 

 車検付きの軽自動車の販売である。

 

 車庫証明書のいらない軽自動車の販売は簡単であった。業者向けカーオークション会場に頻繁に出入りする人を見つけ程度の良い車を仕入れて貰う。

 

 点検し整備してもらい袖ヶ浦の陸運事務所で車検を取得。オイルの交換やコーティングまで施しピカピカの状態で店頭に並べる。

 

 他の中古車販売店ならば走行距離は7~8万キロ未満、年式は税金の上がらない13年未満車を扱うのが常識。

 

 結果として値段も高くつく。

 

 私はこれにこだわらない。古くても、たくさん走っていても良質なクルマならいくらでもある。関東は絶対数が違うのだ。

 

 きちんと点検し誠実な整備を施し車検を付帯させピカピカな状態で展示する。

 

 全てが完了完成しているので名義変更だけでお引き渡しが出来る。

 

 最短3日。

 

 今日契約、2日目名義変更、3日目にお引き渡しする。

 

 先月は17台販売できた。今月7月は月半ばで13台目である。飛ぶように売れている。

 

 中心プライスは25万円。諸経費はどの車を買って頂いても4万千円。

 

 合計29万9千円 ポッキリ!

 

 初めは苦労したが先月で2年が経過。妻にも手伝ってもらい販売台数は200台を突破した。

 

 整備が良いので一件のクレームも無いのが自慢。もちろん中古車なので故障もあればお客様に寄り添い整備工場も紹介する。

 

 お客様からも整備工場からも感謝される。楽しくて仕方が無い。

 

 人に社会に貢献している実感がある。

 

 楽しければ寝ていなくても疲れもしない。それが商人(あきんど)としての現世における修行なのだ。

 

 しかしいつかは辞める商売である。

 

 2年前北秋田市で鷹巣中学校の同窓会があった。

 

 津谷市長の奥さんである淳子さんも同年同期。同じクラスにはなったことは無いが小学校も一緒、同じ米代町の近所だったから幼なじみともいえるかも知れない。

 

 彼女に挨拶したら「あんたもなあ」と言われてしまった。

 

 以前この秋北新聞において私は「骨になったら北秋田市に帰る」と発表させて頂いたことがあった。

 

 事実ではあるがそれでは市県民税を払うことが出来ないのも事実。

 

 秋田出身者は「年貢」は秋田に納めるべきなのだと思う。

 

 「商道施心居士」 生きて修行し納税もする。

 

 いつか秋田に貢献したいと考える今日この頃なのです。

 
 

(北秋田市出身 千葉県茂原市在住)

判官贔屓(ほうがんびいき)


平成30年10月12日(金)秋田県北秋田市 秋北新聞に投稿 掲載   

菊地英雄

 

 不運の将「源九郎 ( みなもとのくろう )判官 ( はんがん )義経 ( よしつね )」のことを知らぬ者など居ぬであろう。中世平安時代。いや800年以上経った現代でさえその人気に衰えは無い

 

 日本人は弱い者が好きなのである。しかし最初から弱いのでは話にはならない。ただ一人の日本人でありながら横綱であり続ける「稀勢 ( きせ )の里」のように弱くても一旦は強者でなければならないのだ。

 

 私の母ミトリ(87歳)なども、史上ワーストとなる8場所連続の休場した稀勢の里が先回の秋場所において二桁勝利をして喜べば良いものを「5回も負けた」と憤慨落胆する。

 

 私が「10回も勝ったのに」と話しても「もう相撲などは見たくない」とのたまう。稀勢の里が息子のように可愛いくてまた悲しいのだ。

 

 日本人には「強きをくじき弱きを助ける」という精神がある。私の母は白鳳が嫌いだ。強すぎるのである。

 

 過ぎ去った夏の高校野球甲子園大会においてもあの金足農業高校に対する人気の沸騰振りは、行ける筈のなかった決勝まで行き、勝てる筈の無い最強軍団に挑み完膚なきまでに負けてさえも尚、敗者を軽んじないすべての日本人の心の琴線 ( きんせん )に触れたのだと私は感じている。

 

 全米テニス出場の大坂なおみさんも、若干20歳で決勝まで進みあの怪物ともとれるウィリアムズを制したのである。絶対弱者に見えるなおみちゃんが勝ってしまったのだ。あの表彰のときの涙に日本人は参ってしまった。

 

 ここに「判官贔屓」の典型ともとれる日本人の気質がかいまみれる。

 

 平家討伐に功績のあった義経は人々からは賞賛されたのだが、絶対強者の兄頼朝からは憎まれてしまった。運命といえばそれまでなのだが、客観的視点を欠いてさえも日本人は義経に同情を寄せ好きで贔屓にする。

 

 時に我らが東北の平泉が世界遺産に登録された。かの義経を贔屓にしたのがその平泉を中心に栄えた藤原家であった。鎌倉幕府の成立の時期に将軍頼朝に滅ぼされてしまったのだが。

 

 私も義経を藤原を、贔屓にしたい。

 

 調べてみると藤原四代目の泰衡 ( やすひら )は幕府軍に追われ現在の大館市比内町まで逃げ、自らの家人河田 ( かわだの )次郎 ( じろう )に殺され藤原は途絶えてしまう。

 

 繰り返すが私は判官贔屓である。

 

 義経が好き。東北の平泉に藤原あり。泰衡は大館の贄柵(にえのさく)で死す。

 

 調べて行くと鎌倉幕府成立の後、滅亡した藤原の家人「大河 ( おおかわの )兼任 ( かねとう )」という人物が、主君の敵討ちの元祖として蜂起している。

 

 大河兼任は男鹿の八郎潟沿岸の豪族である。やがて滅ぼされるのだが鎌倉に対し一死を報いた。

 

 飛躍するのだが、

 

 金足農業高校も八郎潟沿岸である。吉田輝星くんなどは潟上市出身だ。

 

 望郷の念はどこから沸いてくるものなのか分からぬものである。

 

 私には秋田のDNAが流れている。

 

 この夏は金足農業高校に応援し、甲子園の決勝の進出が決まると私も微力ながらも宿泊費の一部を寄付させて頂いた。秋田との一体感が欲しかったから。金足農業ナインとの一体感が欲しかったから。

 

 大会が終わってさえも尚、金足ファンの人たちから2億8千万円にも及ぶ寄付金が集まってしまった。皆金足農業ナインを贔屓にする。

 

 千葉に暮らし来春で5年となる。無性に秋田が恋しくなった。

 

 

 2年前60歳となり年金事務所から「もう年金は払わなくて良いですよ」という通知が来て驚いた。

 

 今年62歳「特別養老年金」というものが振り込まれ始めた。65歳ともなれば本格的に「年金支給」が開始される。

 

 元気な母ミトリも今年11月の誕生日が来れば米寿88歳となる。

 

 千葉にて行う商売は苦労もしてとても繁盛すれどもいつかは辞める商売である。

 

 母の骨は秋田に帰す。私の骨も秋田に戻る。私たちには子がないので妻もやがては秋田の骨となる。

 

 義経の首は本物だったのか。生き延び蝦夷に渡りまた大陸に到達しチンギス・ハンになったのではないか。

 

 比内の河田次郎は泰衡の偽物の首を鎌倉に差し出したのではないか。自らの命をもって義経と泰衡を助けたのではないのか。

 

 私の生まれた1956年頃は秋田の人口も135万人もあったと聞く。著しく減少し経済も縮小する秋田ではあるが、私にも「秋田への判官贔屓」の気持ちはある。

 

 きっと来年は秋田の地から甲子園大会を大坂なおみさんを稀勢の里を応援したいものである。

 

(北秋田市出身 千葉県茂原市在住)

安倍内閣が、国民の預貯金を流通させるために行った「小額投資優遇制度・ニーサ」においては、今回の株安・円高の結果、その損失額の額は2兆円を越すと聞き及びます。

国家が、国民のお金を当てめ「投資」ではなく「投機」を行わせることは「罪」でさえあると私は思っています。

要するに、国が許した「ギャンブル」にも等しい!…ということ。

個人においても、まったく「動機」が軽薄であるだけではなく、卑しい、とさえ思う。

「不労所得」という言葉があるが、政府が、国家を上げて、国民に「投機」を推奨している。

被害者はたくさんあったはず。

赦されないことだと思う。

真の意味で利潤を得るためには、明確な動機と、正義が必要ということだと私は考えている。

現代において「商人」などという言葉を使う機会はまず無い。また、それを名乗る人など、いない時代となってしまった。

「商人」や「商売」という言葉に、どこか差別的に卑下する意味合いを感じるときがある。

「自営業」という言葉でさえ、場所を選んで使わないと「差別」の対象となる。

「自営業」=「商売」=「個人」=「弱小」=「人間的にも下流」

…という具合である。

子供たちは、最高学府である大学に進学し「大企業に就職し安定したサラリーマンになりたい」という考え方が大半だ。

自ら「商売を行う」「商売人になる」という子供はまずいないだろう。

まあ、どんなに小さくとも「会社」を設立するという方法もある。税制的にも優遇されているから。

しかし小さな事業を行うとき「会社」=「法人」という縛りは「足かせ」になる場合もあり得る。ということは「法人」は登記という手段によって土地(所在地)を限定され国家に従属し縛られるから。

事業のスタート段階では、もっと小回りが利き、場所やるべき事も変幻自在な「個人事業主」が自由で良い。事業が成長し、企業化したい、またはするべき時が来た段階で「法人化」しても遅くはない。

昔なら、早く世に出、経験を積むという考え方もあった筈。

経験を積み、個人事業主として「独立」したいという青雲の思想があった。

ちよっと古いかも知れないが・・・

青雲の思想とは「志」のことである。

「志」=「動機」ということ。

商売には「志」と「動機」が必要ということなのだ。



話しを自分のことに転じたい・・・

私には「商人」としての「志」と「動機」があります。

ここでまた「商人」や「商売」という言葉の語弊を払拭しなければなりません!

「商売」のどこが悪いのだろうか?

大企業のサラリーマンになった人にも問いたい「あなたの会社は商売はしていないのか」と。望む望まないに関わらず、企業に所属している限り、やっていることは「商売」そのものである。歯車のひとつとなってしまっているので「私は商売人ではない」「商売はしていない」ということになるのだろうか。

されば、いったい「商売」や「商売人」とはいったい何なのだろうか?


今日の話しの核心に近づく!

なぜ「商売」という言葉が忌み嫌われるのか。それは「欲得」でそれを行っている人があるから。「正義」ではなく「不義」として行っている人間や企業があるからなのだ。

しからば「商売は欲得ではないのか」という問いを貰うとしよう。

私の答えは「欲得ではない」。

人間の世界は欲する人がいて、提供する人がいる。その対価として得られるのが「利潤」なのである。

ひとつ例えの話しをしよう。聞いたことがあるかも知れない。

大きな川に橋が無かった。対岸と交流したいがたやすくは出来ない。誰かが橋をかけた。大きな人的交流によって文化が発展し大きな生産が得られた。双方の住人は橋をかけてくれた人に「お礼」をした。これが対価である。商売の原点であろう。

橋をかけた人は「不便」を発見し「解消しよう」と志した。自費を使って。かなりの高額な拠出があったとしよう。しかし対岸双方の交流によってそこの大衆が得られた利益を合算するならば、軽くその費用を凌駕できる金額であるだけではなく、長きに渡って膨大な利益が生み出されるのであるのならば、各人が少しづつ「お礼」を集めて橋をかけてくれた人に渡したとしても、利便を得られた大衆にとっては痛くもない。

しかし、ここで知らなければならないのが、行っていることが「正しいこと」なのか否かということなのである。

人のまったくいない所に橋をかけたとして喜んでもらえるだろうか。

もちろんそれによって人間が集まって来るということもあるかも知れないのだが…

無人の場所で「商い」をするから失敗するのである。要望のない所でそれを行おうとするから資本金を回収出来ず「あれは失敗した」といわれるのである。

また人が沢山いても「要望」のないことをしても駄目。

但し、

知らなかっただけ、早くそれがあれば助かったのに、という商売もある。

ということは「読み」が適切・妥当でなければならない。

それを見誤るから失敗し「それみたことか」「商売なんて」「商売人なんて」と蔑まれるのである。気をつけなければならない。

商売人、商人が、自らの失敗によって、社会での評価を落としている場合が多々あったのだろう。

残念なことではあるが、やはり気をつけなければならないのだ。

気をつけるとは・・・

勉強し、過去の失敗事例を教訓として学び、先進の成功事例を見、聞き、自らのものとして果敢に行動し、軌道は修正し、最終の目的地に到達すれば良いのである。

中には過去に事例のないことに取り組む、要するに「革新する」ということも必要なのである。

商人による、商売の結果は、そのお礼の多さによって決まる。

「利益」は結果なのである。

ご用心、ご用心!


追記


「悪徳」などは論外である。
「悪徳」については、本日の論点から、著しくはずれた話しなので、後日としよう。
 房総半島はっきりい言って文化遅れています。

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 私は千葉よりももっともっと深い田舎ともいえる秋田の寒村、北秋田市・大館市というところで今までの人生の大半を過ごして来ましたが、秋田は日本一の人口減少県ですし、三大疾病での死亡率も格段に高い場所ですし、雪が降ると半年間も「冬」の状態ですし、大変なところですが…

 千葉県の房総半島、それも外房、茂原市まで来て見ると、またこちらも今は限りなく深遠なる文化の低さを感じてなりません。

 千葉県の人には申し訳ありませんが…

 文化の高い低いは「比較」してこそ初めて知るものです。

 ということは、私もそれなりに寒村ともいえる秋田の田舎において、決して毎日遠くの「青い山脈」だけを見ていた訳ではなく、東京や、日本全国、そして海外に至るまで、そこに新しいもの、気になるものがあるのならば、費用も惜しまずに、何度も何度も見に行き、肌で感じ取り、広く深く情報収集し、持ち帰ったものです。

 私の場合は長い年月「商い」をして参りましたので、関心の的は「小売業・流通業」でした。

 人間の生活は「モノ」によって成り立っています。

 洋服しかり、食事しかり、住宅はもちろん、生活用品に至るまで、当時の秋田は、日本国内においても都市部に比べると、やはり何年も遅れていて、都会では普通に扱われているものや、日常に浸透しているサービス等が存在さえもせず、存在しないということは、知りもせず、知られることもなく、生活者はただ今までの生活を繰り返しているに過ぎませんでした。

 文化の低さは、そのまま「商売のヒント」に繋がります。

 ということは、商業・流通業の先進地に視察に行き、そこで「良しこれだ」と思ったものを持ち帰り「まず模倣から始める」ということをやってみました。

 今まで存在しなかった新しい商品、新しい組み合わせ、新しい買い物の形態、サービス!

 何を持ち帰っても、そこに暮らす生活者(消費者)からは「拍手喝采!」…大変喜ばれたものです。

 そしてやがて、今まで存在しなかった「モノ」や「サービス」が生活に入り込み、浸透し、やがて生活文化として花開き、当然のこととなって行く!

 田舎だった秋田の寒村も、そんな人間の存在によって生活は向上して行ったのです。

 私は「非・食品」でしたが、食品業界においても同じ考えの人間がいて、大いに秋田の「食文化」を向上させたました。私は長い年月その当事者として渦中に存在し、また生活者としても便利に生活してきたので…

 千葉の、房総半島の、それも外房の、茂原あたりまで来ると・・・

 秋田で出来ていた筈の普通の生活を営むことが出来なかった。生活に普通に存在していた「モノ」や「サービス」が揃わないのです。大変に苦労しました。

 もちろん現代は「ネット社会」ですから「インターネット通販」で注文するならば、全国津々浦々どこにいても希望する商品を、翌日や、あるいは当日に入手できる時代ともなりました。

 しかし、全てがインターネットで済むのでしょうか?

 そんなことはありません。

 たまの休日に、たった今、今日、自分の生活をその「モノ」や「サービス」によって向上させたいと思ったとき…ネットで注文しても、たった今自分の目の前には現れてくれませんから、その休日に向上する筈の生活は、向上せぬまま終わってしまうのです。

 食生活もしかり。

 確かに、千葉県はスーパーマーケットの企業数も多く、しのぎを削って競争しながら、品揃えを拡充し、価格競争もしながら頑張っています。

 しかし所詮は「同じ土俵」での腕相撲のようなもの。

 少なくても茂原においては、どのスーパーに行っても、果物の種類はとても少なく、日本全国の、あるいは世界の果物を食することなど出来ません。鮮魚もしかり、麺類もしかり、です。日本海や北海の荒海で育った引き締まった身の魚などお目にかかったこともありません。

 なぜそんなものが、秋田の山中の寒村においても実現していたのか?

 それを運んだ「商人」がいたということです。

 ということは、その地域の文化の低さは、そのまま「商売」になるということです。

 秋田も文化は低かったということです。

 私が何故、千葉に来たのかというと、秋田の、少なくとも私のいた街においては、必要十分なところまで生活文化が向上し、そうしている内に、やっとのことで大手小売業が同じ形態で進出することを予見し、一時代を担った私の役割が間もなく終わるということを予知したからです。

 会社は大きく育て十分に黒字のときに高く「売り抜き」ました。

 そして「文化の低い」千葉に移住。(ごめんなさい)

 そして今新たな商売を通じて、千葉県の、房総半島の、それも外房の、茂原において、地域の生活者の文化向上のため貢献したいと思っているのです。

 こんなことを発言すると「千葉を馬鹿にしたな」と怒る人もいるかも知れません。

 叱られるかも知れません。

 いや、秋田でも十分に叱られて来ました。

 しかしそんな人さえも含め、今まで房総半島には存在しなかった「サービス」や「モノ」「その組み合わせ」を提供して行こうと思っているのです。

 それが「商売」といえるのでは無いでしょうか?

 私は根っからの商売人です!

 もちろん「東京へ行けばなんでもある」ともいえます。

 しかし特急で1時間かけ東京駅まで行き、さらに乗り換えて、新宿や、渋谷や、池袋や、秋葉原に行くのでしょうか?

 行きたい人は1日がかりで行く楽しみもあります。

 もちろん私は別に、茂原に「ディズニーワールド」を持って来ようとしている訳ではありません。

 また現物を見なくとも購入しても良い「モノ」や「サービス」もある筈ですから、それは「ネット」にお願いするのが良いでしょう。

 私は「リアル」で勝負をしようと思っているだけです。

 「商売」によって地域貢献を果たして行きたいと思っているのです。

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