(山本前知事の逝去)
前山口県知事の山本繁太郎氏が、昨日(15日)、肺ガンで亡くなられました。山本前知事と私とは、2008年4月、09年8月の衆議院選挙で2度対戦した間柄で、政治的・政策的スタンスは異なりましたが、強い信念と行動力を持った方だったと尊敬しています。
ここに、山本前知事のご逝去を悼み、ご冥福をご祈念申し上げます。
(山本氏との出会い)
山本前知事と初めて面識を持ったのは、私が2000年に衆議院初当選した時のことです。当時、私は、民主党「次の内閣」の国土交通総括副大臣として国土交通委員会に所属し、国土交通省の幹部だった山本氏とお会いする機会が出てきたのです。
国交省の幹部と民主党の衆・参国交委員会メンバーとの懇親会の場面でも、私は冗談交じりに「私(平岡)は、国交省に橋や道路を造ってくれとは陳情しないが、山本繁太郎さんを衆院選挙に出すことだけはしないように陳情したい。激しい戦いになりますからね。」と申し上げたことがあります。もっとも、その後、岩国市の臨港道路の建設等に関して、山本氏の助力をお願いしたことはありますが…。
(衆議院選挙での戦い)
ところが、2008年4月実施の衆議院山口第2区の補欠選挙を巡って事態が急変しました。自民党の候補者擁立が行き詰まった時、山本氏に白羽の矢が立ったのです。当時の自民党の選対委員長は、「道路族のドン」と言われた古賀誠・衆議院議員で、古賀氏の強い出馬要請を国交省出身の山本氏は断ることができなかったのです。
山本氏の自民党からの出馬が公表された直後、現職衆議院議員であった私は、衆議院議員会館のエレベーターでバッタリ山本氏と出会ったことがありました。私が「あれだけ『衆院選挙に出てはだめですよ』と言っていたのに、どうして出るんですか。」と責めたのに対し、山本氏は「古賀氏から要請されて、断れないんですよ。」と答えたのです。
(知事選挙に当選)
実は、山本氏は、2008年に行われた山口県知事選挙に出馬するべく、07年頃には東京で「山口県知事選挙に出馬する」と周囲の人には言っていました。しかし、当時の山口県議会議長の「今、知事選挙で民主党と対決するのは好ましくない」との判断もあって、二井関也知事(当時)の四選出馬が決まったのです。
民主党の方針として「地方自治体の首長の公認・推薦は3選まで」としていましたが、二井知事については、それまでも民主党が推薦をしてきた経緯があり、もし出馬するということになれば対抗馬を立てることは難しい状況でした。結局、二井知事の四選出馬で山本氏の知事選出馬が消えてしまったのです。
そうした経緯があったればこそ、衆院選挙で二回敗北していたにもかかわらず、二井知事(当時)は自分の後継者として山本氏を指名し、自民党も山本氏を知事候補に推薦したのだと思います。山本氏は、自分が本当にやりたかった知事に当選すべく、体調不良のため周囲が制止するのを振り切って過酷な暑さの中を街宣活動し、当選を果たしました。
(自民党の大罪)
しかし、残念ながら、知事当選後の山本知事は、健康不安に悩まされ続けました。健康自体は、自分の力ではどうしようもないことですが、私は、公職にある知事としての説明責任を果たすようこれまで何度も主張をして来ました。
私のブログでは、昨年11月21日の「今日の一言:県民不在の山口県政」で「自民党県議たちや県庁幹部の対応ぶりを見ていると、山本県知事が退任する場合に備えて、自分達にとって都合の良い県知事候補を探すための時間稼ぎをしているのではないかと疑いたくなります。」と、今年1月8日の「今日の一言:山口県知事の後継選びに疑惑あり」で「県民に対しては、知事の病状や回復の見通しを「特定秘密」扱いにしておいて、他方では、自分たち(自民党)は、「特定秘密」を知りつつ、自分たちの権力を維持するために抜け駆け的な行動をしていたのです。」と書いています。
今になって考えてみると、山本氏は、自分の病状を県民に説明することも、自分の意思で知事を辞任することも、自民党によって止められていたのではないでしょうか。山本氏は、衆議院選挙出馬から山口県知事辞任までの間、「権力の亡者」となってしまった自民党という組織の犠牲者の一人になってしまったのではないか、と残念な思いです。
改めて、山本前知事のご逝去を悼み、ご冥福をご祈念申し上げたいと思います。
(了)