7日、山口二郎・北海道大学大学院教授が、平岡秀夫政治スクール「みんなで政治を語る会」の第1回会合として、「民主政治の危機を考える;政権交代可能なシステムをどう持続するか」と題する公開講演を岩国市内で行った。以下に、そのポイントをご紹介したい(文責:平岡秀夫)。

『(はじめに)参院選挙では、「参院の与野党ねじれが解消した」と言われるが、政策的にみると、原発、憲法改正など、民意(国民の多数)と政権とには「ねじれ」がある。「オリンピックで『3、11』を忘れたい」という「忘却の政治」が進んでいるが、思考停止と事実からの逃避こそが、最大の危機である。

1、 安倍政権の展開と政治の劣化

 アベノミクスで株価が上がっているが、政治の役割は株価を上げることなのか。株価はヘッジファンドで乱高下しているのが実態。日本国憲法は、戦後日本が軍国主義に陥らないための歯止めでもあったが、自民党憲法草案を見るとその野蛮さを感じる。ナチスを見習い、慰安婦を否定しようとする日本の政治家が、国際社会と価値の共有ができるのか?米国でさえ、「日本は、東アジアの国と真っ当に付き合うべき」と考えている。

2、 対抗勢力を再生する

 日本の政党は、右傾化する自民党が「一強」で、国民的常識の受け皿となる政党の存在感がない。標準的な二極的政党システムとして、野党には「穏健・リベラル」という政治的スタンスが必要だ。欧州諸国での10年単位での政権交代を見ると、野党の時こそ党改革(世代交代、組織再編、政策刷新)のチャンスで、「十年一剣を磨く」べき。

 非自民勢力全体の糾合を目指そうとするのは、歴史に学ばないもの。先ずは、自民党の保守主義・競争主義に対抗するリベラルの軸を立てるべきで、かつての大平正芳、宮沢喜一等の路線(リベラル・保守)も一つの路線ではないか。

3、 日本政治の現況

 現在の日本は、「社会統合」の危機で、人を支える、包むものが壊れている。日本は、社会福祉の先進国である北欧諸国に比べ、相互不信が強く、最低の租税負担なのに痛税感が強い。空虚なシンボル(例、日本人)や排外主義による取り敢えずの結集となっている。

 人をモノ同然で使う風潮の中で、「民主主義、平和」という建前への飽きと嫌悪が若者の中に広がっている。「ホンネ主義」の橋下徹・大阪市長の発言は、生身の人間の苦しみに想いが至っていない。

4、 ポスト311のパラダイム(価値観)

 「偏」と「遍」の違い。ポスト311は、「遍」(あまねく、広く行きわたること)を目指すべき。「偏」は「かたより」で、2000年代の米国の「投機経済」、「富の集中と格差」に象徴される。日本も、近年、低所得者層の増加、雇用者報酬の減少(他の先進国は増加)、相対的貧困率の上昇が見られる。

 「遍」として、人間の尊厳と平等のための「普遍的なセーフティーネット」が必要である。子ども手当、高校の無償化は、給付基準が公平な「遍」の仕組みとして評価される。自民党の「国土強靭化」は、役人の裁量と政治家の圧力で配分が決まる「偏」の仕組みに陥るもの。

5、 国民の課題:政治的成熟

 丸山真男は、「反対党にやらせてみて、もし悪ければ次の選挙で引っ込める」が、全体の政治状況と関連させる判断、文脈的思考の必要性を主張した。しかし、今はメディアも市民も文脈が見えていない。自ら政治に関わることが大事で、それにより政治が見えてくる。

 福島原発事故では、日本の自己修正能力の欠如が露呈した。自己修正できない原因は、政治や議論における多様性が欠け、異論を聞こうとしない政治文化にある。

 「民主主義とは、それ自体に、これが民主主義か?という幻滅を、あらかじめ取り込んでいる統治形態なのだ。」(堀田善衛「出エジプト記」)。「希望とは地上の道のようなもの。…もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。」(魯迅「故郷」)。政治とは可能性の芸術であって、「できない」と諦めていることを実現することだ。

日本人は、希望を失ってはならない。

(了)