本日、2年に一度世界各地で行われる「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」の第20回世界大会が、広島で行われました。私も、この世界大会に、国際的な「核軍縮・不拡散議員連盟(PNND)」の共同議長兼PNND日本の代表代行として、タイパレ・IPPNW共同会長、松井・広島市長、横倉・日本医師会長、近衛・日本赤十字社社長らとともに来賓として招かれ、開会式で挨拶をしました。
IPPNWは、1981年、米国ハーバード大学の心臓病学名誉教授であるバーナード・ラウン博士が、米国とソ連との核対決の緊張の高まりを心配して、ソ連の心臓専門医エフゲニ・チャゾフ博士と共同で設立した、核戦争を防止しようとする医師の集う国際的な団体です。1985年には、米国政府とNATOの強い反対を受けつつも、両博士はIPPNWを代表してノーベル平和賞を受賞しました。現在、15万人以上の医師が加入し、世界中の政治指導者との会合も行っています。
今回の第20回世界大会は、第7回の広島大会に続いて、広島では2回目の開催となりました。本大会は、本日から26日までの3日間開かれますが、本日も、開会式の後、秋葉・前広島市長らの基調講演、92歳の小田医師らの「被曝医師の証言」、全体会議Ⅰ「核兵器なき世界に向けて1-ICAN―」が行われました。その中で、私も、全体会議Ⅰにおいて、北東アジア非核地帯に向けてのPNND・日本の活動を紹介しています。
以下に、本日の開会式で私が行った挨拶をご紹介しますので、ご覧ください。なお、実際には、英語で挨拶をしていますが、ここでは日本語に翻訳したものを掲載いたします。
『平松医師、タイパレ医師、御来賓の皆様、そして紳士・淑女の皆さん!本日、ここ広島の地で第20回IPPNW世界大会が開催されるに当たり、PNNDを代表してご挨拶をする機会を得ましたことを誠に光栄に存じます。また、IPPNWが、核兵器の廃絶を目指す医療専門家の集まる集団として、常日頃から活発に活動されておられますことに敬意を表します。
私は、日本国の衆議院議員・平岡秀夫と申しますが、現在、PNND日本支部の会長代行とPNNDの国際共同議長を務めています。ここで、私と原爆との出会いを少しだけお話したいと思います。
私は、原爆が初めて人類に向けて投下されたここヒロシマから約40キロメートル離れた岩国市という町で、1954年に生まれ、育ちました。私が、原爆の恐怖をハッキリと認識したのは、私が小学校6年生の時に広島の平和公園に遠足で行ったときのことです。その際、広島平和公園の中にある「原爆資料館」を訪問し、その中にあった展示物や写真を見て、子供心に大変なショックを受けました。写真や展示物で見たものは、まるで地獄そのもので、その夜は、怖くて眠れなかったことを今でも鮮明に覚えています。
私が成人して分ったことですが、昨年亡くなった私の父親は、原爆投下当時、陸軍の兵器部隊の下士官として爆心地から5キロメートル離れた町に駐屯しており、直接被爆はしませんでしたが、被爆者救済のための活動で間接被曝しました。戦後、父親は、被爆者手帳をもらいましたが、被爆者に対する偏見や社会的差別の問題もあったため、間接被爆の体験も語らず、被爆者手帳を持っていることを子供にも教えず、原爆のことは何も語りませんでした。
そんな体験を持つ私は、今、こうして、日本国の国会議員として、PNNDの国際共同議長として、そしてPNND日本の代表代行として、核兵器の廃絶に取組んでいます。是非、IPPNWの皆さんとも一緒になって共に活動していきたいと考えています。
ところで、現在の日本では、被爆者の方々の高齢化が進み、原爆投下の記憶が薄れてきていますが、他方で、原爆症認定基準の緩和の問題、被爆2世・3世に対する原爆放射線の影響に関する実態調査や原爆症関連疾患の治療補助の問題などが存在しています。このように、核兵器は、それが投下された直後の被害だけでなく、その後何十年もの間、無垢の人々を苦しめているのです。人道的にも「使ってはいけない兵器」です。様々な危機を乗り越えて近代社会を作り上げてきた人類は、自らの手でこの世に誕生させた「悪魔の兵器・核兵器」を自らの手でこの世から葬り去る責任を有していると思います。
私としては、IPPNWに集う皆さんが、皆さんの医療専門知識を通じて核兵器廃絶に取組んでいかれることに大いに期待をするとともに、今回の広島での世界大会が実のあるものとなることを祈念してご挨拶とします。』