2011,5,18 親父の死


 今晩午後8時前に、私の父・平岡勝人が亡くなりました。享年満87歳でした。


 父は、1923年(大正12年)9月2日すなわち関東大震災の翌日に、山口県岩国市の半農半漁の家に長男として生まれ、下松工業学校、陸軍兵器学校を卒業して陸軍で勤務し、戦後、岩国の祖父の家に戻り、農業・漁業をしながら岩国消防署に57歳まで勤め、その後ご縁あって岩国市農業協同組合の理事や組合長を務めました。私の祖父も悪いことができない人でしたが、父も決して悪いことができなかった人でした。


 陸軍時代には終戦直前に広島市の宇品に駐屯していたそうで、その時に原爆投下に遭遇しています。直接被爆をしたわけではないのですが、被爆者救援のための活動をしているときに被曝したそうで、被爆者手帳も持っていました。実は、そんな話は、父から直接聞いたことはありません。被爆体験を話すことがよほどつらかったのか、それとも被爆者に対する差別を恐れていたのか、わかりませんが、私がそのことを知ったのは、私が成人してからのことでした。


 父は、決して出世した人ではありませんでしたが、色々新しいことに挑戦することが好きな人でした。消防署勤務時代は、広域消防への組織替えに取り組んだり、消防組合に吹奏楽団を作ったりしたことを誇らしげに話していました。消防署を退職して直ぐに、父は、父の叔父がその50年前に移民したブラジルに親戚を訪ね歩きましたが、それをきっかけに近所や親戚の方々がブラジルに行くようになりました。農協組合長を退いてからも、岩国市に、レンコン以外にイチジクやビワの名産を作るのだと頑張っていました。


 人に対しては大変優しい人だったと思います。私に関しては、私が小さかった時に父に逆らったときに一度叩かれたことがあることを記憶している位で、そのほかに怒られた体験はありません。私の叔母が障碍者の子供を抱えて悩んでいた時にも、「火事は、誰も自分の家で火事になるとは思っていないが、一定の確率で必ず起こるんだ。それと同じようなものだよ。」と慰めてくれたそうです。


 私が、今から13年前に、岩国市長選挙にでるかでないか決めようとして故郷の岩国市に戻って父に相談した時、父は反対をしました。「キャリア官僚として安定した生活を送っているのにもったいない」ということでしたが、田舎にある私の家の畑で仕事をしている父の所に足を運んで二人きりで話をしたときには、「やりたいのなら、やってみたらいい」と認めてくれました。市長選挙に敗れた後、民主党から国政選挙の誘いがあって、自民党支持の農協の理事を当時していた父に、私が「民主党から国政選挙に出たら何か困ることがあるか」と聞いた時も、「特に困りはせんぞ」と言ってくれました。


 今年の正月に、岩国市内のホテルで、親戚の皆さん40人くらいを呼んで父の米寿の祝いをしました。その時は、白内障・緑内障で片目が見えず、足も弱っていましたが、みんなの前で挨拶をしたり、歌を歌ったりで元気だったのですが、それから一か月もすると体調を崩し、病院で検査してもらうと胆管にガンがあることがわかりました。ガンのある場所や進行具合から手術は無理で「余命は3か月から6か月である」と言われました。体が弱っていたために「ガン告知」はできませんでしたが、本人は「もう寿命じゃ」と弱弱しく言ってましたので、気づいていたのかもしれません。


 東日本大震災が起こって、父は、病床のテレビで、父の誇りであった消防の職員や団員が活躍している姿を見て涙ぐんでいました。みんなのために働き、活動してきた父は、自分自身の人生に納得をしていたと思います。残された私たちも、父の姿を思い起こして、納得のできる人生を送っていきたいと思います。どうか後のことは心配しないで、安らかに眠ってください。  



・「至誠通天」-2000年国会見学 ・「至誠通天」-2000年ハス堀
2000年 国会見学で                   ハス堀  右が父
・「至誠通天」-2003年事務所開き
2003年 事務所開きにて