今朝、私の中学時代の恩師であり、私の地元・岩国の後援会長である野村晃久先生が逝去されました。享年74歳の若さで亡くなられた晃久先生は、私にとって、青春時代の私に大きな影響を与えた方であると共に、政治家となった現在の私に大きな力となってくれた、正に、かけがえのない方です。以下、晃久先生との思い出を語らせて頂きます。

 晃久先生との出会いは、私が、今から44年前に地元の川下中学校に入学したときに、晃久先生が私の担任の先生になられたときでした。その時、先生は、市内の離れ島の小さな中学校の先生を終えて、市内でも最大規模の私の中学校に転勤されて来られたのです。島の小学校の先生を勤めておられた奥様と一緒に島から戻って来られたのです。

 当時の先生は、「俺は、20代だ。」と言って自慢するくらい、若々しくて元気な先生でした。川下中学校は、米軍基地が近くにあって、市内でも悪名高い「不良中学校」で、晃久先生は、生徒指導の先生を務めていました。先生は、大変厳しい先生でしたが、私が「生意気なやつだ」と言って不良の上級生から虐められたときには、私を助けてくれる優しい先生でもありました。

 中学校時代の先生との思い出は数多くありますが、印象に残っている事件が二つあります。いずれも、私が負けず嫌いで強情であったことから起こったことで、先生には大変ご迷惑をかけましたが、私にとっては、自分自身を見つめるのに大変教訓となった事件です。

 一つは、私が得意の科目であった数学の試験問題について、先生に食って掛かったことです。ある問題がどうしても解けなかったのですが、先生が解答を示されたときに、私が問題の文章を誤解して読んでいたことが分かったのです。それでも、「先生の問題は、文章がおかしい。」と食って掛かって教員室まで抗議に行きましたが、先生は無茶な抗議にもチャンと付き合ってくれたのです。

 もう一つは、先生の授業中に、先生が、たまたま教室の収納棚に給食の牛乳の空き瓶を見つけたときのことです。沢山の空き瓶があったので、先生が怒って「誰が置いたのか」と聞きましたが、誰も答えません。先生が、当時学級委員であった私に聞きました。「平岡、お前は、あそこに空き瓶が沢山あるのを知っていたか。」と聞いて来たのです。

 私は、知っていたので、正直に「知ってました」と答えたところ、先生は、「知っていたのになぜ皆んなを注意しなかったのか」と聞いてきました。私が、「その気がなかったからです。」と答えたら、先生は、「なに!もう一回言ってみろ」と怒ったのです。私も正直に言っていたつもりだったので、もう一度「その気がなかったからです」と答えてしまったのです。

 すると、その途端、先生からビンタを食らいました。当時、私はメガネをかけていましたので、そのメガネが吹っ飛んでメガネのレンズが割れてしまいました。晃久先生は、上司の教頭先生と一緒に私の家に謝りに来られました。私の両親は、「息子が悪いならどんどん叱ってやって下さい」と答えたそうですが、先生には、私が我を張って申し訳ないことをした思っています。

 中学校卒業後は、先生の家に訪ねて行ったり先生と何度もお会いしましたが、その中でも、先生の思いを痛切に感じたことがあります。それは、私が、今から12年前に、岩国市長選挙に出馬するために大蔵省を辞めて岩国に戻って来ようとしたときです。先生は、「市長選は応援はするが、平岡には日本全体の仕事をして欲しい」と言われたのです。

 結局、私は、岩国市長選挙では敗れ、その後に衆議院議員選挙に出馬することになりました。先生は、大いに応援をしてくれ、総理大臣の息子で大臣を務めたこともあった現職の衆議院議員を破って初当選をしました。その後、先生は、「平岡議員が大臣になるまでは死ねない」と言って、今日まで応援をし続けてくれました。

 6月の菅直人政権の誕生と共に、私は、内閣府の副大臣に任命して頂きました。晃久先生も大変に喜んでくれましたが、私が大臣になった姿を先生に見せられなかったことは残念で仕方ありません。先生に食って掛かって来た私ですが、先生の期待に応えられるように今後とも頑張っていきますので、どうか見守ってください。

 野村晃久先生、大変お世話になり、ありがとうございました。お別れの言葉を最後に申し上げます。「先生、さようなら」