今夕、私の地元の岩国市で、岩国市民文化講座として、浅野史郎・元宮城県知事の「地域の格差と経済活動」と題する講演がありました。この岩国市民文化講座は、岩国錦ライオンズクラブが1972年に開始して、今回が37回目になる歴史あるものです。私も、浅野氏のお話を聞きたくて家内と一緒に聞きに行き、いつも通りの浅野氏の軽妙な語り口のお話を楽しく聞かせてもらいました。

 浅野氏の語り口の軽妙さはお伝えできませんが、以下、お話のエッセンスをご紹介したいと思います。なお、読み易さに資するために、私の勝手な理解で、適宜、見出しを付けさせていただいておりますこと、一部には間違って理解している可能性がありますことを、予めお断りしておきます。

『1、地方の活性化
(地方は、自ら変わるべき)

 岩国市でも「地方格差が、岩国市で起こっている」と言われているが、宮城県でも同じであり、そのことは、既に20年前から言われている。地方が政府に対して「補助金下さい」、「援助下さい」等言うのは、「乞食の心」でしかない。竹下総理は、かつて、「ふるさと創生基金」として、全国3250自治体にそれぞれ1億円ずつ配分した。しかし、それは、リポビタンDを配るようなもので、元気になったような気がするだけ。ジョッギングのように、体質改善の必要性を自分で感じて、自分で取り組まなければいけない。

 (地方の違いを活かせ)

 「格差」と言うが、積極的に理解すれば、「違い」あるいは「special(特別な、とっておきの)」ということで、地域でも、会社でも、「これだけは他に負けない」という誇りが大事である。宮城県知事時代に「ふるさと懇談会:知事さん、あのね」を71市町村で行ったが、「東和町のspecialは何か」との問いかけに、ある嫁さんは、「うちの町には土(つち)がある」と答えた。

 (熊本県での具体例)

 NHKの元アナウンサーの鈴木健二氏が、熊本県民文化会館館長となって、県内の波野村を訪れた時、村民から「お神楽が無くなってしまう。何とかして欲しい。」と訴えられた。そこで、鈴木氏は、「文化塾」で神楽の勉強会を開いて、NHKのビデオ・ライブラリーを活用して勉強をした。その結果、3年後には、文化会館で、2日間通しの神楽で、延べ7000人の観客を集めた。その後、「道の駅」の隣に「神楽苑」を設け、全国から観客を集めている。

 「黒川温泉」は、全体で29軒、お客600人強の収容能力しかない温泉地である。その黒川温泉は、後藤哲也氏(新明館経営)が先駆者となって、全国有数の温泉地となった。黒川氏は、土地の余裕のない黒川温泉で、露天風呂として裏山に磨き上げた洞窟温泉を造り、周囲を杉の森から季節感豊かな落葉樹の森にし、料理も隣の旅館の板前に批評してもらって改善した。

 新明館の成功を見て、隣の「いこい旅館」の娘婿の小笠原氏は、黒川氏にアドバイスを求め、「美人風呂」という露天風呂を造り、料理の改善を行った。その他の温泉旅館も、二旅館の成功例に見習いたかったが、土地の余裕がなく追随できなかった。そこで、黒川温泉全体を一つの旅館に見立てて、「入湯手形」で三つの旅館の風呂に入れるようにした。その他、障子の統一、杉板のガードレール等の工夫をして、黒川温泉を全国一の温泉地にした。

 (地域活性化に必要なもの)

 以上の例は、北川・元三重県知事の紹介によるものであるが、「北京のチョウチョ」という理論を示している。「北京のチョウチョ」とは、一羽のチョウチョが飛び立って、隣のチョウチョを飛び立たせ、そして一群のチョウチョを飛び立たせ、いずれニューヨークでハリケーンを起こすまでになることを示している。後藤氏が、自ら改善に取り組んだことも立派であるが、その経験を小笠原氏、そして黒川温泉全体に広げたことがすばらしいこと。

 以上のことから、「地方が元気になるために最も必要なものは何か」と言えば、「人」である。「人」の中でも、①よそ者(例えば、東和町の嫁)、②変わり者(人が気がつかないことに気が付く)、③女性、の3つが特に大事である。元気な地域では、必ず女性が元気だが、その裏には、男性の理解と協力があるからである。後期高齢者の人は他の人を排除しがちであるが、地域の活性化のためには、これらの人を排除してはいけない、ということである。

 2、民主主義の話
 (地方自治と民主主義)

 「地方自治は民主主義の学校」(ジョン・ブライス(英))と言われるが、これには、2つの意味があると思う。一つ目は、「身近な地方政治に関心を持った上で国政への関心を持つべき」ということと、二つ目は、「入学した(税金を払っている)のなら、学校に出る(地方政治へ参加する)べし」ということ。

 市長の名前位は知っていても、市議会議員の名前や市議会が何をしているのか知らない人は多い。〇〇市での講演で、「明日から市議会が無くなるらしいが、誰か困る人はいますか」と尋ねたら、市議会議員以外に「困る」と言った人はいなかった。「市議会は、チェック機関である」と言われることがあるが、チェックするだけならば、3人いれば十分。「市長と議会は車の両輪」と言う人もいるが、一輪車の方が小回りが効く。何のために市議会があるのだろうか。

 市議会は、市の「唯一の立法機関」である。しかし、我が国では、英語の「law maker(法を作る人)」ではなく、「law passer(法を通す人)」になってしまっている。条例も、条例案の提案の大半は市長が行っているのだ。最近、議員提案の条例も増えてきているが、もっと増えても良い。予算案作成への関与(透明性のある協働)もあって良い。「浅野史郎条例」とか、「山田太郎予算」と呼ばれるものが評価され、政策能力で議員が選ばれるべきである。

 (ほんものの民主主義)

 「ほんものの民主主義」の反対語は、「にせものの民主主義」ではなく、「お任せ民主主義」である。「政治に無関心」というのは、「オリンピックに無関心」と違って、皆の生活に大きな影響を及ぼすものである。そして、「民主主義」とは、税金に関する話である。13世紀の「マグナカルタ」は、「国民の承認が得られない税金は、一切取ってはいけない」というものであり、17世紀の「名誉革命」は、「国民の承認が得られない税金の使用は、許されない」というもの。

 その観点からは、今年は、「民主主義」を感じるのに良い年であった。道路特定財源では、30数年間続いた「暫定税率」というものが取られていたり、マッサージ・チェアやカラオケ・セットが道路特定財源として使われていることに国民が怒った。「政治とカネ」では、歴代農水大臣が「事務所費問題」等の問題を起こして、自殺や辞任をしたことに国民は怒った。残念なのは、国民が「直ぐ怒るが、直ぐ忘れる。」ということだ。

 「もんだの人々」がいる。談合問題でも、「談合は、江戸時代からあった美しい文化。皆が共存するためには、そんなもんだ。」と言っていた人達がいる。15年前に、ゼネコン汚職で前知事が辞職した後に、ある有力県議が知事選挙出馬の誘いに私(浅野)の許に来た。私は、知名度も資金もなかったので断ろうとすると、その県議は、「お金のことは心配要らない。知事を一期やれば元が取れる。そんなもんだ。」と知ったかぶりに言っていた。

 結局、県議からあった話には私は応ぜず、当時副知事であった人が多くの団体の推薦を得て出馬することになった。しかし、私は、「宮城県の誇りを取り戻して欲しい」との声に応えるべく、告示3日前に出馬を表明して、29万票対21万票で勝利した。その選挙戦では、選挙前には、母校(高校)の先輩(当時、県医師会会長)からは、「20対0で9回裏2死走者なしで打席に立つようなもので、止めろ」と言われ、選挙後には、「誰が出ても勝てた」と言われた。

 民主主義で大事なのは、「選挙」である。選挙の有り様が、当選後の市長や議員の有り様を決める。正義感も、倫理観も、吹けば飛ぶようなもの。どんなに立派な人でも、選挙がグチャグチャならダメになる。選挙では、有権者と裸での戦いになり、有権者の思いが候補者の体中に突き刺さる。宮崎県知事選挙での戦い方を見れば、「新知事は大丈夫」と思ったし、現在、その評価に応える仕事をしていると思う。

 最後に、「おかしものは、おかしい」と言うこと、怒りは持続すべきであること、を訴えたい。そのことが、政治や地域を変えることに繋がっていくのである。』