そろそろこのブログを始めて一年になる。

毎日の雑感の中で、
遊びやクラブ活動のエネルギーを少しずつ受験勉強にシフトする、とは書いたけれども、子供をコントロールしてはいけないとも書いた。勉強習慣が大切だと書いた一方、自然の流れに任せるとも書いた。
一見矛盾する二つの間で平衡をとること。

塾である以上、持続可能なだけの利益が必要である事を認めながら、利益追求だけの組織にならないこと。合理的にならざるを得ない部分を持ちながらも、合理、能率では割り切れない部分になんらかの価値はないかと懐疑してみて、そこを大切にすること。

生徒の前では、完全を目指しながらも、人間である以上、不完全さがぼろぼろと出てくる所を見せるしかないこと。

福田恆存の次の一節は、
教育の限界を認識して初めて教育が可能だという逆説
なんでも教えることができるという錯覚
を述べたものです。

私たちは教育の限界といふものを心得ておかなければなりません。人間が教育できるなどと思ひあがつた考へをもつてはならない。子供を一個の人格として認めるといふことは、かれらがしん粉のやうにどうにでも細工のできぬものだと觀念することでせう。いい教師といふのは、それを知つてゐる教師のことです。さういふ教師だけが、子供のまへに、教師としてではなく、一個の人格として立ちうるでせう。さういふ教師だけが、かれの豫期すしなかつた、しかもかれの教へられるすべてを教へることができるのです。子供にとつても、さういふものだけが、學ぶに値することになるでせう。眞の教育といふものは、このこと以外にありはしない。
「『親孝行』教育論争」(『常識に還れ』所収、新潮社)



塾は受験の知識を教える。それでさえ、何処まで可能か?授業で扱える知識の量は、週1,2回の時間ではたかが知れている。
ましてや、それ以上のこと、しつけ、学習態度、…
一体、何処まで「教える」ことなどできるのだろうか。

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