先日、書店に行くと「東大」とタイトルについた書物がヅラリと並んでいました。

「あゝ、こういうタイトルをつけると本も売れるんだな」と感じました。


雑誌でも
「東大合格者高校別ランキング」
の特集があり、

かくいう私も「東大」とタイトルのついた本を何冊か持っています。

テレビ番組でもありましたね。

今の日本は、東大を頂点とした序列化された大学と、その大学に何人合格したか、という高校の序列があり、「いい学校」の基準が其処にしかないように思われます。
それ以外の価値基準を持っていない。

みんながみんなそうだとは言えないかもしれませんが、高校を選ぶ際にも、東大(或いは京大)に何人合格者を輩出しているか、というところで、「いい高校」かどうかが判断されて、そこがダメなら(例えば関西なら)阪大神戸大はどうだ、関関同立は?などとあくまでも、東大を頂点とした序列の中で、自分が目指す高校がどれほど近いのか、或いは遠いのか、が判断されるのであります。

教える側も教える側で、子供に動機付けを与える時に、それ以外の価値基準を提示できないでいますね。

塾業界、予備校業界もよくない。
東大京大に合格したぐらいで、人生の成功者のようなイメージを植え付けようとしています。

大学は学問するところです。

理系の事はよくわかりませんし、事情が異なるので、口幅ったいことは申し上げられませんが、文系の学問なら、場所を問わずどこでもできます。吉田松陰は野山獄でもできました。(『野山獄読書記』)

私もアカデミズムの視野の狭さが嫌で、大学院から抜け出しました。

西部邁はこう言っています。
「学問はつまるところ自分の『生き方』に根ざすのであって、国内だろうが外国であろうが、大学であろうが裏街であろうが、学界で俗界であろうが、場所それ自体は、そこにおける『生き方』の如何によって、学者に益を与えたり害を与えたりさまざまである」と。
(『学者この喜劇的なるもの』p28)

では、大学に行く目的は何でしょうか。

私の尊敬する思想家のF は、「どこの大学に行けばいいか決まっていなければ、大学はできるだけ大きな大学に行った方がいい。大きな大学だと交流範囲が広がって、いろんな人と繋がりができるから、卒業後も、仮に自分が困った状況に置かれた時に救いの手を差し伸べてもらえる可能性がある。」と言っていました。

また、

作家の吉本ばななが、高校を卒業する時に、「大学なんか行きたくない」と言った時に、
父親の評論家吉本隆明は、
「大学なんかくだらない、行くに値しない、ということを知るためにも大学に行け」
と言ったといいます。

そんなものかもしれません。

それにしても、あのキムタツ先生もおっしゃっていましたが、週刊誌の「東大合格者高校別ランキング」はやめたほうがいいと思います。東大を基にした序列を助長するだけだと思います。