2020年3月15日(日) 晴れ

例幣使街道を栃木宿まで走ってきて、次の今市宿までを調べていたら、楡木宿から今市宿までは正式には壬生街道となるとのこと。一応こだわって、先に壬生街道を楡木宿まで走っておくことにした。この区間は20キロ程度なので、例幣使街道も金崎宿まであと10キロほど走っておくと、残り30キロぐらいなのでちょうど良い。

コース


西国分寺を6時4分の武蔵野線に乗って、小山駅には7時43分に到着。喜沢分岐までのバスは8時5分で9分ほどで着く。
待つのも、時間がもったいないので、走ることにした。

喜沢分岐には8時10分に到着。
分岐の中央に男體山と彫られた石碑が立っている。右奥州、左日光とあるが右が五街道の日光街道なので、日光奥州としたほうが良いのではないか。この壬生街道、日光街道よりも5キロほど短いので、利用する人も多かったそうである。

喜沢分岐

日光街道から別れて、すぐに小山ゴルフクラブの中を横断する。ゴルフ場に入ってすぐのところに一里塚がある。案内板には「日光街道西一里塚」と書かれていた。

日光街道西一里塚


3.5kmほどで飯塚宿となる。立派な屋敷があるが、これが本陣なのだろうか。

さらに進むと飯塚の一里塚が残されている。その先の右手、畑の中に琵琶塚古墳がある。この辺り、古墳があちこちにあるところを見ると、昔は豊かな土地だったのだろう。

琵琶塚古墳


少し前から、用を足したくなる。紫式部の墓などに寄りながら天平の丘公園内を散策する予定だったが、先に資料館に向かう。資料館の手前にお休み処のようなところがあって、そこのトイレが使えたのでほっとした。

天平の丘公園の中を戻り紫式部の墓を見て、防人の道を通り、国分尼寺に行く。なんで紫式部なのか気になっていたが、鎌倉時代に作られた供養塔で、この地が紫という地名だったので「紫式部の墓」と言われるようになったと、説明板には書かれていた。なんとも、いい加減に名前をつけるものだとあきれる。



国分尼寺は桜の名所とのことだったが、まだほんの少しだけしか咲いていなかった。

国分尼寺と桜


隣に、しもつけ風土記の丘資料館があり見学するつもりだったが、この時期、ご多分に漏れず、休館となっていた。

街道に戻る手前右手に広大な草地がひろがっていた。案内を見ると下野国分寺だ。自治医大近くにあるのは薬師寺で国分寺はここだったのだと、勘違いしていたことに気付く。
その隣には甲塚という盛り上がった場所があった。

 

下野国分寺


しばらく行くと壬生一里塚があった。壬生街道の楡木宿までの間で一番端正な形をしていた。日本橋から23里目(96km)にあたる。

壬生一里塚


やがて街道は右に折れ、左に折れして壬生宿に入る。松本内科医院の隣に立派な門があり、ここが脇本陣だったとのこと。

その先の足利銀行のところを左に入り、しばらく行くと壬生城址公園がある。復元された大手門を入ると石垣と堀が残されている。城は壬生氏によって創建され、北条方に味方したということで、秀吉に滅ぼされ、最終的には鳥居元忠の子孫が入り、明治まで続いたという。

壬生城址の石垣と濠

 

鳥居元忠は関ヶ原の戦いに先だって、伏見城に立て籠り、石田三成軍を1ヶ月に渡り防ぎ、最後に自刃したという忠義の人である。図書館の裏には、元忠を祀った精忠神社がある。命の代償として、このように末代まで大切に扱われるのであれば、全力で忠義を尽くすのも理解できる。

精忠神社


この公園の中に壬生町立歴史民俗資料館があるが、ここも休館であった。

街道に戻り、壬生宿を出る辺りに壬生寺がある。ここは、天台座主慈覚大師円仁の生誕の地で産湯の井戸まである。岩舟の町の手前にも生誕の地という場所があったのを思い出す。正確なところはわからないが、この辺りということだ。

壬生寺 天台座主慈覚大師円仁産湯の井戸


北関東自動車道をすぎると、左手に稲葉一里塚があった。その先には「鯉沼九八郎翁の碑」という大きな碑がある。鯉沼九八郎は板垣退助の自由民権運動に参加し、これを妨害しようとした栃木県令三島通庸を暗殺しようとしたが、誤爆で自分の左手を失ったという。服役後は県議会議員として活躍した熱い男だ。

鯉沼九八郎翁の碑


三島通庸は山形県令でもあって、その時も強引な建築土木工事で非難を浴びたと羽州街道の楢下宿を調べていた時に資料に書かれていた。よほど土木工事が好きだったようで、楢下宿ではめがね橋が今でも使われている。歴史に名を残すような人は、ある意味強引で庶民から批判を浴びるような人間でないとだめみたいだ。

金売吉次の墓を見落としてしまったが、田んぼのまん中に祠のようなものがあったので、それだったようだ。金売吉次の墓は奥州街道の白坂宿にもあった。こっちは病死して、白坂宿の方は強盗に襲われたと資料には書かれていたが、どちらが正しいのだろう?

ここで楡木駅から新栃木駅に向かう電車の時間を調べると、12時10分でその次が13時13分。あと7キロほどを1時間なので普通に走れば十分間に合うが、ゆっくり寄り道している余裕はない。休まないようにして先を急ぐ。

さらに進んだ田んぼの中に義経の冠を埋めたという判官塚があった。義経とどんな関係があるのだろうか。近くに説明板のようなものが遠望できたが、時間がないので先を急ぐ。

判官塚

 

日光も近くなり杉並木が見られるようになる。

 

杉並木

 

楡木追分にやって来た。右が例幣使街道であり、次回は右手から現れるようになる。

楡木追分(右:例幣使街道、左:壬生街道)


少し進んで左折すると楡木駅まであと数100m。スピードを上げて走り、電車の出る6分前にプラットホームに立つことができた。当初立ち寄る予定の資料館が休館だったため、予定より早く着くことができた。

新栃木駅に戻り、前回のゴール地点である嘉右衛門地区の北端交差点から12時25分にスタート。まずはネットで調べた中沢製麺というラーメン屋に向かう。いってみると麺だけの販売で食事は作っていないという。グーグルマップに出ていた写真は、麺を納入した先のメニューだったようだ。
この先しばらくは食事をするところもなさそうなので、すぐ近くの吉野家で牛丼を食べる。アメリカ産牛肉は成長ホルモンを加えている可能性があるとのことで、吉野家の牛肉は大丈夫かもしれないが、不安なので最近はほとんど行ってなかった。
でも、牛丼はヨシギューがいちばん好きだ。

再び走り始め、しばらくしてコースを確認すると、ずいぶん違う方向に走っていた。それほど離れてしまったわけではないので、急いで本来の道に戻り先を進む。

やがて合戦場宿に入ると右側に大きな石碑が立っている。「小平浪平生誕地」と掘られていた。
日立製作所の創業者である。後ろはその生家のようだ。長く繁栄し続けられる企業の礎を創るというのはすごいことだと思う。

小平浪平生誕地碑


合戦場宿を出てすぐのところに「升塚」があった。これは1523年の宇都宮忠綱と栃木城主皆川宗成の軍が戦った川原田の戦いで戦死した両軍の戦死者を弔った塚とのこと。塚の上に碑があった。戦死者の塚の上に立っても良いものか少し気がとがめたが一応行ってみた。

升塚

ここから金崎駅までは6キロほど。こちらも普通に走れば次の新栃木行きには十分間に合いそうだ。幸い寄るべき史跡ももうないし、ひたすら走って金崎駅には14時10分に到着。
新栃木、南栗橋で乗り換えて新越谷駅前のとんこつラーメン福ヤに立ち寄り、ビールとラーメンを本日のご褒美とする。

走行距離:35.7キロ
走行時間:4時間35分