妙子さんは自分の姉のことです


自分はブログのなかで魂こめて正直にをもっとうに書いてきたつもりですが姉のこまかいはなしについてずっとさけてきました


それは自分だけのことじゃなく姉のプライバシーもあるし自分が姉のことをジャマだとか、はずかしいやつだとかハンデだと思われて同情されたくないということがあったり


自分にそういう気持ちがゼロだったのかといえばウソになります、つらかったこともたくさんありました


自分もおかげさまで50才がちかくなり、もうそろそろここまできたら解禁してもいいかなと思えるようになりました


それでも自分のはなしじゃないのでくわしいことを書けませんが妙子さんはいろいろありすぎて何度も入院したり毎日 死にたいばかりと泣いてばかり夜中にいなくなって探しにいったり繰り返すなどいろんなことがありました


自分が創価学会となるべくはやく離れようと思うようになったのも妙子さんの存在が大きくて妙子さんをすぐ近くでみていて自分も親と創価学会に深くかかわったらきっと殺されると本気で悩みました


いまだったら笑いばなしだけど小学生や中学生の自分には重くとても笑う余裕なんかなかった


もし生まれる順番が反対だったら何度も入院したり毎日 死にたいばかり繰り返す生活をしてたのは俺だったかもしれないとよく思います、妙子さんが自分の人生に大きく影響したと思いますので姉の存在に感謝しなくてはいけません


必死に自分が自信のもてることをゼロからマラソン練習はじめたりプロレス観戦、キャバクラ遊びなど知らない世界にひとりでとびこんでいき、うまくいかないこともたくさんあって大変だったけど妙子さんにくらべたら我慢できるとがんばってこれたように思います


親が宗教やってなかったら自分の人生を自分で決めていくことも当たり前のことだけど自分はその当たり前の自由がない環境



自分は結婚もせず子供もおりませんが妙子さんが甥っ子の正幸ちゃん姪っ子アッコたん、伸幸ちゃんを産んでくれ歩いてすぐのところに住んでいたのでたくさん遊んでもらったことも幸福だし


こんなことを言うと怒られるけど自分の血のつながった息子がいなくても正幸ちゃんがいればそれでいい自分にとってなくてはならない存在なのでやっぱりブログにいつか残さなきゃとずっと思っていた


いまの自分があるのも自分の努力が半分で妙子さんや甥っ子と姪っ子の存在が半分だと思う


何年も同じ内容の繰り返しになりますがマラソンがなかったら自分とっくに自殺してるか刑務所にいったりきたりの人間になっていたと思う


そしてマラソンをはじめる大きなきっかけに妙子さんの存在がすごく大きいことを追加したいです

雨がたくさんふっていた7月1日の月曜日、仕事中で15時をまわったあたりだろうか会社に母から電話があったそうで父が亡くなりました


母に電話してもでなかったので姉に電話して早退してカッパ着て自転車で病院に行った


病院について場所がわからなかったのでもう一度     姉に電話したらもう自宅に戻ってる途中だからごめんねということで自宅に引き返した


自宅で体も黄色っぽくて目を半分あけて口をギュッと とじてるおとうちゃんをみた


何度も目をとじてあげてもしばらくすると開いてきてしまい、まだ死にたくないから助けてくれと言ってるようにみえた         


                           76才だった


ひとりでしんどくなってきたので友達に電話しようとしたけど、おとうちゃんの希望でお通夜も葬式も家族だけでと頼まれていたので できなかった


いつもアメーバブログ読んでくれるみなさんにも報告できずのままほったらかしで申し訳なかったです


10年くらいパーキンソン病というのになって、だんだん歩けなくなっていき転んで骨折して入院したり自宅をいったりきたりを5年くらいしていました


3月まで元気そうで自分でコンビニ行ったりしてたのが圧迫骨折が2箇所ふえて自分で食べることも難しくなっていき4月終わりころ誤嚥性肺炎で深夜11時に救急搬送された


それから病院の先生に鼻からチューブさされ栄養とるか胃に穴をあける胃ろうにするか決めてくれということになりどちらも選べなくて迷っていたら面会にいくと鼻からチューブだと両手をしばられつらいからはずしてほしいと何度もお願いされたので

胃ろうにしますってはなしを病院の先生とし


肺炎の治療と熱がさがってコミュニケーションがちゃんとわかるくらいしゃべれるように回復したら胃ろうの手術まで様子みることに


胃ろうの手術が保留になり頭も混乱しておかしなことを言うようになって看護師さんに食事なげつけたりもして、もううちでみれませんということになり精神科病院に移動もしました


どんどんしゃべれなくなり息子の認識もあまりできてるかできてないかもわからなくなり回復しないまま6月23日に最後の面会をし病院を移動して1週間後に亡くなることになりました


自分とは性格も価値観もぜんぜんちがって創価学会のことでふりまわされたり自信とヤル気をなくされることばかり言われほとんど親子らしいこともせず


2009年11月11日に祖母の葬式から孫が生まれてから態度も変わってきて10年くらいと短い間でしたが、ちょっとでもいろいろはなしもできてよかったと思うが


昔のことをどうしてもひきずって父親に大事な相談を一度もしたこともなく終わってしまい自分も子供だった


けどそれだけ小学校から人間性を否定され自分の意見もしゃべらせてもらえなかった、まわりほとんど創価学会にかこまれてひどいめにあわされてきたので、たぶんおとうちゃんが80や90まで長生きしてても、そんなに変わらなかったように思う


また落ち着いたらゆっくりブログ書きます





2010年の10月にアメーバブログはじめたので、それより前に参加したマラソン大会の記事がありません


そのなかのひとつに富里スイカレースもあって最近いろんな人のブログみるなかに富里スイカレースの感想がいくつか拝見して懐かしいし楽しそうだから自分も書くかなって気持ちになりました



ちゃんとアルバムに残ってました。参加したのはパンフレットのスイカにつられて楽しそうだねって単純なもの


2006年と2007年にゴールして給水所もスイカだらけだったのをよく覚えてます


あれからもまだ大会が続いてくれてること嬉しく思います