政治的なことは興味がありませんが、ガラにもなく、えらっそうに反日デモについて考えてみました。


反日デモを身近で見ていて腹が立った。暴力行為や日本人に対する無差別な罵倒に対してではない。反日デモは、今の中国において政治的に正しい行為(political correctness)である。だから政治的には何らのリスクもない。それをさも正義の代弁者ヅラをして叫ぶ姿が、むしろ許せなかったのである。一方日本でも、中国が全て悪いような世論が全体を覆っていた。これこそ、日本における「政治的正しさ」である。だから天邪鬼的に、政治的に正しくないかもしれないことをあえて記したい。

反日デモが広がった2012年9月17日、岩井俊二氏によるツイッターのつぶやきがネット上で物議をかもした。たとえば「国があの島を買うという行為がどれくらい挑発的かを相手の立場でもう少し考えるべきだと思う。それと日本はかつて侵略戦争をしかけて負けたのだというのも忘れすぎている。それで相手国ばかり責めたのでは相手だって怒り出すのが道理」などだ。これに対し、ネトウヨを中心に批判の声が多数上がった。

拙文では彼の発言を深読みして一部擁護すると共に、持論を述べてみたい。
確かに日本人はいま、先の大戦で徹底的に敗北したという事実をすっかり忘却している。その戦争の質(侵略戦争だったかどうか)については後で触れる。ひとまず、敗北したという事実に焦点を絞りたい。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がある。極東裁判の虚妄について、日本の愛国主義者を中心に様々に指摘がなされているが、根本的には「負けた以上、日本にとって屈辱的な、不条理な結果になるのは当然」ではないだろうか。マッチョな日本の愛国者に対し、あえてこう言おう。「負けたくせに裁判にケチを付けるのは女々しいことだ」と。

以下のように考えると分かりやすい。

石原莞爾が世界最終戦争と位置付けた先の戦争。この戦争で死んでいった日本の兵隊たちは、どうして命を落としてまで日本を守ろうとしたのか。それは、負ければ全ての日本の男は串刺しにされ、女は強姦されると思ったからではないのか。あるいは、負ければ日本という国が、永遠に虐げられ続けると考えたからではないのか。そして、だからこそ彼らは、躊躇なく相手国の人間を殺戮することもできたのだ。

結果、日本は敗北した。つまり串刺し、強姦、屈辱を甘受しなければならない立場に追い込まれたわけだ。ところが、戦後しばらくして日本は敗北した事実をすっかり忘れてしまった。

なぜか。

朝鮮戦争をきっかけにして経済が立ち直り、冷戦下にあったことによってアメリカの庇護が得られたからだ。冷戦を始めとする様々な政治要因から、アジアの戦勝国からの文句もあまり出なかった。そして高度経済成長を達成した結果、敗北感でなく「負けて、勝つ」という、むしろ戦勝の気分が日本を覆うことになった。

冷戦が終わりに近づくと、アジアの戦勝国が改めて日本の戦争責任を問い始めた。これは朝日新聞を始めとする日本メディアの「戦争責任キャンペーン」がきっかけになっているとは思うが、その背景には、アジアの戦勝国自体の中に、日本の戦争責任を強く求める潜在的気運があったからだろう。

中国にせよ、韓国にせよ、これらは日本の敗北によって棚ボタ式に成立した国家である。しかし、それでもなお「官軍」には違いない。官軍という立場を確固たるものとするために「反日」を利用したいという各政府の思惑はあるにせよ、その前提にある国民マインドには、圧倒的勝者としての当然の権利として、太平洋戦争だけでなく近代以降に日本にされた屈辱的行為を(それが事実であれ虚偽であれ)まるごと非難し、加えて、日本から奪われたものを奪い返したい思いがあるのだ。

「敗北」という事実に鈍感になっている日本が、そのような激しい主張に「?」となるのも当然である。

とはいえ、戦争責任があること自体は自覚しているため、これまで日本政府はけっこう謝罪してきた。同時に「?」という思いもあることから、謝罪したすぐ後、謝罪にはほど遠い失言があったりした。また、お詫びの意味を込めてアジアの戦勝国に経済支援や技術支援を行っても、先進国としての優越感から「支援してあげている」という気持ちのほうが勝ってしまい、上から目線で実行することになった。

このような、敗戦国としての自覚が欠けた日本の振る舞い(良くて対等、多くが上から目線)に、アジアの戦勝国が度々「カチン」と来るのも理解できる。

あらためて言う。日本は敗北した。つまり串刺し、強姦、屈辱というものを甘受しなければならない立場に追い込まれた。本来ならば、日本国民は戦勝国からの屈辱を長々と甘受しなければならない立場である。そうなっていないのは、戦勝国の思いやりというものだ。

ここで、先の戦争の質(侵略戦争だったかどうか)について考えてみたい。

先の戦争で死んでいった日本の兵隊について「無駄死にだった」と考える人は、究極的には「なぜならばそれが悪い戦争(侵略戦争)だったから」という論理なはず。

逆に「無駄死にではない」と考える人は、それは「正しい戦争だったから」とか、「自衛のためにやむを得ず行った戦争。日本を守ろうとした兵隊の行為は尊いから」という主張だろう。

前者の「無駄死にだった」と考える人は、戦勝国の人々に対してこう言うべきだ。「日本はまったく愚かな戦争をした。酷いことをして申し訳ない。みなさんの怒りを鎮めるために、できるだけのことをしたい」と。

他方の「無駄死にではない」と考える人は、戦勝国の人々に対してこう言うべきだ。「当時としては、日本を守るためにやったことである。それを否定したくない。しかし、負けた以上、戦勝国からの罵りは永遠に甘受しよう」と。

これを前提に「それでもなお島は日本のものだ」と発言するならば、筋が通っている。中国や韓国は、現在よりも冷静に相手の論理に耳を傾けるだろう。

筆者は先の戦争が侵略戦争だったのだろうと考えるが、それでも後者、「無駄死にではない」を選びたいと思う。侵略戦争かどうかという判断は、当時の当事者の気持ちを無視した、現在からの視点に過ぎないからだ。

「過去のことなど自分とは無関係。知ったことか」という人も多いと思われる。しかしその論理は、敗北した国の国民に限っては適用されないのではないか。少なくとも戦勝国の人々と対峙したときはそれを言うことができないだろう。敗北という十字架を背負った、情けない国に生まれたことを恨むしかない。

ただし、それを自覚してこそ「浮かぶ瀬」もある。人間は被害者になることもあれば、加害者になることもある。正義が悪に転じることもある。先の戦争と通じて日本は、国家や人間に対する理解を深めた。だからこそ、世界に貢献しうる大切な何かを日本は得たのだと考えるべきなのだと思う。