セルフ・アップデーターという在り方 -25ページ目

セルフ・アップデーターという在り方

旧:とある学会のサロン模様~「D学会 D・サロン」~
タイトルを刷新しました。

あらためまして、セルフ・アップデーターのひでです。
セルフ時代の現代を生きる一人一人の自己(セルフ)に焦点を当て、総合力の更新(アップデート)を全力でサポートします。

 昨日はあの大震災から6年目の節目の日であった。黙祷を捧げながら、生かされた者の一人として、担う役割を果たしていきたいと強く願った。

 

この事は私一人ではないであろう。時間と共に風化などさせてはならない。当時の映像はネットの動画でも簡単に再生できるが、その時間を再生するという事の重みは軽んじてはならないはずである。

 

頭を過るキーワードは、余震・津波・募金・物資・流通・ボランティア・政府・電気・原発・放射能・世界各国…学び伝える為の再生であって欲しいと切に願う。

 

 さて「考え方」について少し思った事があり、洞察しながら論じてみようと思う。

とくに「考え方を変える」について少しだけ考察してみたい。

 

例えば、言葉のまま受け止めた時「考え方を変える」とは一体どういう事だろう?ご覧頂いている方はどんな印象を持たれているだろうか。少し開け考えて頂きたい。

 

①  「目に見えない何か大きな意思に従う事」ではないだろうか?

自分の考えと異なっていても「周囲の皆が正しい事」だと言うからそれに従う事が正しいのではないか?自分より優れた考えがそうさせているのだから間違いないだろう。だから自分は間違った考えを持ってしまっている。自分の考えを貫く自信が無い。責任を負うのも嫌だ。だから、周囲に合わせて考え方を修正しておく事が肝要だ。

 

②  自分の考えとちょっと(だいぶ)違う。絶対的な賛成ではないが、何となく納得はできる。良く考えると、この違いは今までの自分には無かった考えが含まれているからだ。こういう考え方もあるかも知れない。今後の参考になりそうだから、自分の考え方にも付加してもっと良い考え方があるか検討したい。

 

他にもパターンはいろいろあると思うが、書いていたらキリがないので省略させて頂く事にした。
 

集団生活では、個を大事にしつつも極端に協調性が重視され基本的に目立つ「行動や言動」といった考え方の表現を制御されているように見える。突っ込んだ事を言うならば、個々の意思が弱くそれに伴って意志も弱くなっているのが現状ではないだろうか?

個々が持たなければならない責任はどこへ行ってしまったのだろうか?従っていれば責任は問われないなどと勘違いしていないだろうか?無責任の罪は重い――。
 

話がやや逸れたので戻そう。

結論として、私は「考え方を変える」とは、②の様に自分自身で培ってきた「考え方」の土壌に、肥料として「違う考え方」を付加して、「新たな考え方」を模索しながら物事に臨む事だと考えている。

そうすれば、力(権力)のある人に従って考えを変える事無く、質問や意見として議論し話し合う事でより良い考え方を作っていけるのではないだろうか。

そんな愚行を私は繰り返している――。