秋の長雨。ここ数日はだいぶ冷えるようになった。つい先日の夏日が本当にあったのだろうかとさえ思う。考え事をするのに、室内においては、このぐらいの雨音と気温は心地良いとも感じるのだが。
雨音に耳を傾け少し想いを馳せれば、太古より続く自然の営みであり、普遍的なものだ。私は四十数年生きているが、ありがたい事に「止まない雨」も「明けない夜」もまだ経験した事がない。出来る事なら未来永劫に原則は変わらずに作用して欲しい物である。
さて、随分ぶりに何かを書こうとしているのだが退屈な方には、これまた退屈なものとなりそうである。というのも私の関心事項のひとつでもある「文化」についてあれこれ愚考を巡らせるものだからである。
要約すると、秋の夜長の暇つぶし程度にはなるかも知れない駄文を、書き連ねていこうというものだ。突飛なものも多いはずである。どうかご容赦願いたい。
まず、文化の中にどんなものが含まれ、どうして文化となるかを考えてみたい。基本構造的な要素だが外側から中心に向かって見てみたい。
これを分かりやすく紐解くには、人類の歴史の視点から入るのが良さそうである。(とはいえ私は高卒なので、考古学の視点から語る様な事は到底出来ない事を先にお伝えし、赦しを乞うばかりである。)
歴史の門をくぐると、文化圏というある一定の地域があると捉えている。この地域の中で行われている活動そのものが文化である。活動をしているのは人である。その一定地域の人であり、個々人は自由であり交流しながら集団を作りながら活動し生活している。これを社会とも言う。
地域内の集団(社会)が一定の水準と秩序を保ち続けるには「きまりごと」が必要になる。この「きまりごと」は地域の人々が共通で理解出来る「言語(言葉)」で構成されている。
言語は話す為の「言語(言葉)」と、記録する為の「文字(記号など)」が用いられる。(歴史上には「文字」を使わない文化もあったと思うが、文字の代わりになるものは使っていた様である。)
「言語」は人が発するものであり、使うものである。個々の考え方や想いを伝える手段でもあり、お互いを理解する手段でもある。他者に自分の意志や概念を伝える最高の知恵である。
集団の「きまりごと」となるには一定の有力者や実力者が中心になって決めていたと想像するのは難しくない。初期国家のほとんど全てが王権である。王の言葉は、神々への畏怖や感謝の念を表し、人々を勇気づけ、国を統治した。
少し言い換えると分かりやすいのだが「王の言葉が文化圏の人々に伝播し文化を形成した」のである。これが悪政であれば、文化圏の人々は苦しみに怒り、叛旗を翻すのも目に浮かぶ様である。王には絶対的な信頼を置くのも当然なのだ。王が人格者である事が大前提の時代でもある。
これをもう少し平たく考えると、実際には中心人物となった長(リーダー)が率いる小さな集団が他の集団と衝突したり話しあったりしながら、次第に大きな集団となり文化となり王国となっていったのではないだろうか。
そうして、個々は集団の中で役割を分担し、自ずから役割に対する責任を果たし、その恩恵として豊かさを分かち合いお互いを敬う文化を育んだのではないだろうか。それを見た王は、民を報い讃えたのではないだろうか。
また、この文化圏の中で培われた技術が、道具や機械を生み出し、文化を高度に成長させる様子を文明と呼ぶ様である。(文明については、またいつか書いてみたい。)
この辺りで、この王権の考え方を現代の組織に置き換えながら考えてみたい。突飛な試みである事は承知の上である。
例えば、創業から百年近い企業で、正規・非正規従業員総数が1,500名とする。社長は王の立場でものごとを言うとしよう。歴代の社長は絶対的な立場であり、最高権力者なので幹部は全員従って来た。
その大きな企業が何らかの理由で「倒産の危機にある」となった時、一般社員はもとよりパートタイマーやアルバイトの全員にまで危機を伝え、その危機を回避するにはどのような選択肢があるだろうか?
やり方や考え方は人の数だけあるはずで、正解はないのだが、社長を含め役員幹部が多額の退職金を手に退職する一方で、同時多発的に従業員の一時解雇が行われる様な事はあってはならないと私は考えている。
「立派な立場ある人が言う事は間違いなく立派である」とは現代も守り続けたい伝統でありながら、厄介な依存思考でもある。これは、念頭に置いておきたいものでもある。ただし、あくまで、どこまでわきまえて考えられるか?である。
いくつか質問が過るはずである。我々はいくつかの質問を考え、答えるうちに、歴史は繰り返されている事を学べるのである。歴史は学ぶべき勘どころさえも教えてくれる。
残念な事に我々が歴史に学べないのは「昔と現在は違う!」という事実に錯覚や驕りがあるからではないかと私なりに捉えている。
だが、そこまで考える暇がない。余裕がない。という理由は現代人に共通する時間不足の病でもあり、最も貴重で誰もが不足する資源である。
だからこそ、われわれ一人ひとりが、危機や問題に対処する姿勢は「いつ何時でも自分の行動に伴う責任は自分が取る」と自覚し、決めておく必要があると私は考える。
この覚悟を持って、チームに、組織に、社会に、向き合っていく事で他責にする事は激減するはずである。そして、責任は果たし合えるものであり「自分のリーダーは自分である」と認識できるのである。
つまりは、他者の誰もがリーダーである事を理解し、文化のもとになるものを持っている事をお互いに理解するのである。