東京辰巳国際水泳場において第92回日本選手権が開催され、五輪切符を掛けた熱いレースが展開されている。特に4月8日(金)夜に行われた男子200m平泳ぎ決勝には大きな注目が集まった。レース結果は、小関也朱篤選手(1位:2:08.14)と渡辺一平選手(2位:2:09.45)が見事、派遣標準記録記録(2:09.54)を突破し、同種目の五輪代表に内定した。まずは両選手の健闘を讃えたい。
2人の力泳と共に、もう一人、全国民の関心を集めたは、北島康介選手の泳ぎ。結果は、5位(2:09.96)に終わり、惜しくも5大会連続の五輪出場を逃した。この結果を踏まえ、今後の去就について問われた北島選手は、第一線を退く決意を表明したわけだが、平井伯昌コーチをして、「北島ロス」と言わしめるぐらいだから、落胆した競泳ファンは多かったに違いない。
しかし、2000年シドニー五輪以降、日本競泳界を牽引してきた北島選手の実績は不滅であり、今回は残念な結果に終わったが、北島選手の足跡はすべてのアスリートのロールモデルとなり得、称賛に値するものと思われる。そこで、彼のどこが凄いのか、少し専門的観点から私の考えをまとめておきたい。
まずは、結論から言うと、「北島選手が平泳ぎを進化させた」という紛れもない事実。彼の泳ぎの特徴として、よく言われるのが、「抵抗の少ない、大きな泳ぎ」。ではなぜ抵抗が少ないことが大切なのか?そしてどうしたら大きな泳ぎができるのか、出来る限り分かりやすく解説を試みたい。
まずは、水は空気より密度が800~900倍も高いので、単純に言って、同じ姿勢、同じ速度で移動したら、水中は陸上より800~900倍抵抗が大きくなります。こんなに抵抗が大きいとなると、「やっぱり抵抗を少なくしなきゃ」と思いますよね。加えて、抵抗は速度の2乗に比例して大きくなるので、速度を1割増(1.1倍)しようとすると、抵抗は約2割増(1.1×1.1=1.21)になるので、正に競泳は抵抗との闘いなのです。
また、平泳ぎで顕著なのですが、1ストローク中の泳速度は変動し、加速と減速を繰り返します。このような加減速をするとニュートンの第二法則(力=質量×加速度)によって、一定速度ですっ~と泳いだ(加速度が小さい)時より、余分に力が必要になり、泳者は体力を消耗します。
輪を掛けるように、水中を移動する泳者は、体の周りの水も引きずって泳ぐので、その分、見かけの質量が増え(これを付加質量と言い、だいたい体重と同じくらい)、単純に言って陸上で同様の加減速運動をした時の2倍の力[力=(身体の質量+付加質量)×加速度]が必要になるのです。
こうしてみると、如何に加減速を抑えることが大切かお分かりになると思いますが、北島選手の場合には、誰よりも抵抗の少ない姿勢を保ち、加減速の少ない泳ぎ、つまり省エネで泳げる技術を持っているので、余力を残して後半勝負できるのです。
じゃみんな、北島選手の省エネフォームを真似すればいいじゃないかと思うでしょうが、そうは簡単に問屋は卸しません。
そもそも4泳法の中で、技術的に一番難しい泳ぎは、平泳ぎといえます。なぜなら、平泳ぎは推進力を発揮した後のリカバリー動作を水中で行い、さらに左右の四肢を同時に動かすので、必然的に加減速が大きくなってしまうからです。よって並の選手が平泳ぎでやみくもにピッチをあげると、加減速が増幅され、エネルギーの無駄遣いとなりやすいのです。この加減速の大きさという観点から4泳法を比べると、平泳ぎ>バタフライ>背泳ぎ≧クロールの順となり、そのまま技術の難易度とも共通します。
でもどうです?こうやって並べてみると、日本人が得意な種目順に並んでいるように見えませんか?つまりパワーで劣る日本人が競泳で勝ち抜くには、いかに技術で優位に立てるかが肝なのです。
その難しい平泳ぎで北島選手は、世界に先駆けて、リカバリー動作中に抵抗を極力抑えるフォーム、具体的には前方からの流れを出来る限り妨げない角度で大腿を引きつけ、前面投影面積が最小となるように両腕を戻す、しかもそれらをベストのタイミングで行う泳技術を獲得したのです。
このような技術的裏付けがあるので、北島選手は、水をかいたり蹴ったりしない、非推進局面の時間を他の選手よりも長くすることができ、結果的にストローク頻度の少ない、いわゆる大きな泳ぎが可能となったのです。しかしこのような動作は、不安定な水の中でやろうとしても、誰にでもマネできる技術では無く、たとえ似たようなフォームであっても、少しタイミングがずれるだけで機能しなくなる微妙な世界であり、そこに北島選手の優位性があるのです。
これまでの説明で、北島選手の泳ぎが加減速が少なく、省エネ泳法であることは分かっていただけたかもしれませんが、それだけでは速く泳ぐことはできません。なぜなら、推進力があってこそ、減速を抑える技術が生きるからです。
では、北島選手はどのよに推進力を生んでいるのでしょうか?
ここから先は、最新の研究成果を元に話を進めるので、たぶん北島選手はこうしているんじゃないかな?という推測の域を出ないことをご了承下さい。
そもそも平泳ぎは、他の泳法と違って、脚のキック動作よる推進力が腕のそれを上回ります。よって、平泳ぎではキック動作による推進力が生命線となります。
その平泳ぎキックの推進力発揮メカニズムの解明を目指した研究によると、推進力は足の裏と足の甲の圧力差に比例します。つまり、足に働く力=(足底圧力-足背圧力)×足の面積。となると、足の面積は変えられませんので、推進力を大きくするには、圧力差を大きくすれば良いわけですが、それには次の3通りの方法が考えられます。
1つは足底の圧力を高める方法、2つ目は足背の圧力を低くする方法、そして3つ目は先の2つを組み合わせ、足底側を高め、足背側を低くする方法です。常識的に考えると、力強く水を蹴ることによって、足底の圧力を高めれば良いと思われるでしょうが、実験で平泳ぎキック動作中の足底と足背の圧力分布を計測してみると、速く泳ぐ選手は、どうやら3つ目の方法を用いているようで、特に足背側の圧力低下が顕著でした。
つまり、うまく水を蹴ってやると、もちろん足底の圧力は高まりますが、それより足背の圧力が低くなる(負圧になる)ことで、圧力差が大きくなり、足底側から足背側に作用する力(流体力)が増加していたのです。一方で、むやみやたら速く蹴っても圧力差は増大しないことが分かりました。
えっなに?足背の圧力が負圧??どういうこと???疑問はごもっともです。
専門的な話になりますが、平泳ぎキッ動作中、弧を描くように水を蹴ると、足背側に渦が生じ、その渦の作用によって足背側の圧力が著しく低下し、水中にもかかわらず、圧力がマイナスの値となる現象が起きるのです。このような流体現象は、昆虫の飛翔動作や魚の泳動作において既に確認されています。
これ以上はかえってややこしくなるので述べませんが、北島選手の場合にも、おそらく巧みな蹴り動作によって(どんな動作なのかは未解明)、足背側で渦が発生して圧力を低下させ、大きな推進力を産んでいたのではないかと推察されます。そうでないと、足の面積がでかく、パワフルなキックをする外国人選手に太刀打ち出来ないでしょうから、、、
このような技術獲得を通じて、北島選手は平泳ぎを進化させ、幾度となく世界記録更新を成し遂げてきたわけです。 しかしここに至るまで、もちろん本人の才能や努力は特筆すべきことでしょうが、忘れてならないのは、平井伯昌コーチの存在です。
平井コーチは、常に科学的視点から仮説を立て、その仮説を実現するトレーニングを考案し、そしてレースにおいて結果を検証するという、まさにPDCAを実践してこられた名伯楽です。 常に研究を怠らず、理想のフォームを追い続けていらしたように思います。そういう意味では、北島選手と平井コーチの二人三脚が平泳ぎを進化させたというのが正しいのでしょう。
もうこれからは、選手とコーチという関係性で2人をプールサイドで見かけることはないのかもしれませんが、今後も両者の動向をウオッチしていきたいと思います。