『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』の映画を観て,「ハンガリーにおける水球」の位置付けに関する認識を新たにした.

 「ハンガリーにおける水球」のアナロジーとして,日本でのスポーツに置き換えてみると,サッカーと水球がハンガリーの国技(National Sport)とされている<From Wikipedia>ので,「ハンガリーにおける水球」は「日本における野球」と言えなくもない.

 World Baseball Classics (2006)において,日本が劇的な優勝を果たし,世界一になった時,国全体が大きな高揚感に包まれた.この優勝を契機にサッカーに押され気味だった国内の野球人気が復活したとも言われる.

 その脈絡でいえば,「ハンガリーの水球」が優勝するたびに国民は熱狂し,水球人気の高まりが想定されるが,実際にはオリンピックで過去8回優勝し,そのうち2連覇を3回成し遂げているというのだから,「日本の野球」をはるかに超える実績を持つ「ハンガリーの水球」は,もはやお家芸を超えて,国民の誇りと言えるだろう.

 人気が高いから世界一になれるのか?あるいは世界一になったから人気が高いのか?おそらく相乗効果であろうと思われるが,ともかく日本のイチロー並みにハンガリーのカシャシュは知名度が高いのだ.

 サッカーに関しても,ハンガリーはかつて1950年6月の対ポーランド戦から1954年6月のワールドカップスイス大会決勝の西ドイツ戦まで、4年間に渡って無敗(32戦して28勝4分)を誇り,マジック・マジャールと称されるなど,サッカー王国としてその名をとどろかせた.今日ではやや低迷しているが,それでもサッカーの人気は揺るがず,水球をしのぐ存在である.

 話を映画の舞台となった1950年代のハンガリーに戻そう.第二次世界大戦後,ハンガリーは東側陣営に属し,ソ連の衛星国家として民族の自決を奪われ,抑圧された状況にあった.そのハンガリーにとって水球とサッカーはまさに自尊心を発露し,自国の存在感を示めせる唯一の存在であった.

 そして運命の年,1956年を迎える.学生が主導する自由と民主主義を求めるデモ(10月23日)をきっかけに,ハンガリー国内では鬱積した民衆の不満が一気に爆発する.言論の自由と民族の自決を求める闘争は,ハンガリー全土に飛び火し,内乱状態となる.これを武力で鎮圧しようと,ソ連軍がハンガリー国内に侵攻し(11月4日),武装市民との激しい銃撃戦の上,抵抗勢力を制圧した.

 自由を夢見た闘争は,無残にも打ち砕かれ,ハンガリー国民は失意の底に突き落とされた.しかし唯一の救いはメルボルン(オーストラリア)で開催されるオリンピック(11月22日~12月8日)であった.先のソ連によるハンガリー侵攻に抗議し,スペイン、オランダ、スイスはオリンピック不参加を表明していたが,ハンガリーはあえて自国の窮状を世界に知らしめるために,オリンピックへの参加を決断したのだった.

 特に水球チームは1952年のヘルシンキ・オリンピックで優勝したディフェンディング・チャンピオンであり,なんとしても優勝して,ハンガリー国民に希望を与えると共に,メディアの注目を集めることでソ連の蛮行を世界世論に訴える機会にしようとしたのだ.

 メルボルン・オリンピック水球競技には,ハンガリー,ソ連,ユーゴスラビアをはじめとする10カ国が参加した.予選は3つのグループに分かれてリーグ戦を行い,各グループの2位までが決勝ラウンドに進み,計6チームによる総当り戦を行うことになっていた.

 ハンガリーは予選ラウンドを全勝で通過し,決勝ラウンドでもイタリア,ドイツに快勝し,宿敵ソ連と一戦を交える事となった.
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 12月6日,ハンガリーとソ連の試合は,異様な雰囲気の中で始まった.場内は,ハンガリーからやむなく亡命した難民やハンガリーの自主独立を支持する5500人の観衆で埋めつくされた.試合は序盤からラフプレーの応酬となるもの,ハンガリー代表のスター選手エルヴィン・サドル(Ervin Zador)が,ソ連選手の執拗なマークを振り切り, 2得点を挙げた。観衆の応援を背にしたハンガリーチームは破竹の勢いで得点を重ね4対0とソ連を突き離す.

 しかし試合時間残り1分となった時,ハンガリーは退水を取られ,一人少ない退水ゾーンでの守りを強いられる.必死で守ろうとするハンガリーの堅守に対して,苛立ったソ連のバレンティン・プロコポフがエルヴィン・サドルを殴る暴挙に出た.エルヴィン・サドルは右目じりを切り,出血した.「プールの水が赤く染まった」という報道はおそらく誇張であろうが,顔面から血を流すハンガリー選手を見て,観衆は激情し,場内は騒然となる.

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 事態の収拾を図るため,警備に当たっていた警察は,試合時間を残しながらも,試合を中断させ,審判はハンガリーの勝利を告げた.

 試合後,エルヴィン・サドルは。「私たちは自分たちのためだけに試合をするのではなく、ハンガリー全体のために試合をするのだと感じていた」と語ったとされる.まさに水球史に残る激戦であった.

 その後,ハンガリーは優勝をかけてユーゴスラビアと対戦し,接戦の末2対1でユーゴスラビアを破り、4つ目の金メダルを獲得した.これでハンガリーチームはオリンピック優勝と言う栄光を手に入れると共に,祖国の窮状を世界に訴えることに成功した.

 しかし大国同士の思惑の狭間で,小国ハンガリーの尊厳は回復されることは無かった.現状に失望したハンガリーチームの半数がオリンピック後,亡命することを希望し,祖国を離れる決断をすると言うなんともやるせない結果となったのである.

?H3>メルボルン五輪水球競技

予選ラウンド

Aグループ
ユーゴスラビア(YUG)
ソビエト連邦(URS)
ルーマニア(ROM)
オーストラリア(AUS)
結果 1位YUG,2位URS,3位ROM,4位AUS

Bグループ
ハンガリー(HUN)
イギリス(GBR)
アメリカ (USA)
結果 1位HUN,2位USA,3位GBR

Cグループ
イタリア(ITA)
ドイツ(GER)
シンガポール(SIN)
結果 1位ITA,2位GER,3位SIN

決勝ラウンド

各グループ上位2チームによる総当り戦(予選ラウンドでの対戦した相手を除く)
HUG 4 – ITA 0
HUG 4 – GER 0
HUN 4 – URS 0
HUN 2 – YUG 1
YUG 5 – USA 1
YUG 2 – GER 2
YUG 2 – ITA 1
URS 3- ITA 2
URS 3 – USA 1
URS 6 – GER 4
ITA 3 – USA 2
USA 4 – GER 3

最終順位

1位HUG,2位YUG,3位URS,4位ITA,5位USA,6位GER,7位GBR,8位ROM,9位AUS,10位SIN

オリンピックにおけるハンガリー水球栄光の軌跡

年   開催地        1位    2位     3位
1932 Los Angeles	  HUN	GER 	USA
1936 Berlin	               HUN	GER	BEL
1952 Helsinki	  HUN	YUG	ITA
1956 Melbourne	  HUN	YUG	URS
1964 Tokyo		  HUN	YUG	URS
1976 Montreal	  HUN	ITA          NED
2000 Sydney	               HUN	RUS	YUG
2004 Athens	               HUN	SCG	RUS

参考文献

Gyarmati, D. ( 2002) Aranykor A Magyar vízilabdázás történente, Herodotosz Könyvkiadó és Értékesítő Bt., Budapest.
“Hungarian Beat Russian Team, 4-0”, New York Times, 6 December 1956, p.49.
Rinehart, R.E. (1996) “Fists flew and blood flowed”: Symbolic resistance and international response in Hungarian water polo at the Melbourne Olympic, 1956. Journal of Sport History, 23(2): 120-139.
“Russians in Rough Game” The Melbourne Herald, 6 December 1956.
Smith, J.R. (1989) The world encyclopedia of water polo, Olive Press Publications: Los Olivos, CA, pp.38-40.
Veto, J. (1965) Sports in Hungary. Corvina Press, Budapest.