あるキーワードでアメーバブログを検索していたら、

とあるブログの記事に巡り合わせました。こういう内容でした。

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その方は、半年ほど前にアメーバピグのチャンネルフロアで、
某マイナーなバンドのパーティーを一人でやっていたようで、
そこに珍客が迷い込んできたそうです。

その珍客は第一声に、「このバンド専門のパーティーやってる人なんて
めずらしい」と言ったらしく、珍客に興味を持ったその方は、珍客の
ブログをチェックしました。

珍客のブログは、哲学というか、「幸せとは何かとか、生きる価値とは…」
などとか書いてあり、その方はたいそう興味をそそられ、ブログが更新する
のを見つけるたびに、覗いていたそうです。

その珍客は、いつもピエロの帽子に、白い髪の毛のピグの風貌だとのこと。

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私もよく、ピグチャンネルフロアを利用しているのですが、
そのようないでたちのピグは他に見たことが無く、
察するに、どうやら私のことらしいのです。

その方は、私のブログの隠れファンらしく、
「コメントはできませんが、陰ながら応援してます!」と書いてありました。

ありがとうございます。大変嬉しかったです。と、同時に大変驚きました。


じつは私、みなさんには内緒でしたが、わけあって前回の記事をを最後に、
ピグとブログをしばらく離れるつもりでした。

しかも昨日は私の誕生日でした。その最期の最後に、ブログ巡りをしていたら、
まさか偶然でのそのような方と記事をつけるとは。嘘みたいでした。

私はとくに信仰心は持ち合わせてはいませんが、こういう巡り合わせを
目の当たりにしてしまうと、「ひょっとしたら神が何かの操作をしているの
ではないか?」と、どうしても思ってしまいます。

「幸せ」という言葉はかつて、「仕合せ」であり「為合せ」だったのですが、
まさしくその「シアワセ」を感じざるをえません。

縁は異なもの味なものです。在り難いものです。



今まで応援してくださった皆さん。ブログをご覧頂いた皆さん。

ほんとうに、ありがとうございます。




前に、幸せの字は「辛い」にフタをして「幸」だと言いました。
つまり、難を逃れて安心した状態が幸せであって、追い求めるものではなく、
そこにあるもの(人生)に気付くことであると。

玄侑宗久「しあわせる力」を参考に「シアワセ」の由来を簡単に紹介すると、

 ・為合わせ(奈良時代) 。私がすることと、誰かのすることが合わさる。
  この誰か(相手)とは、天、自然。

 ・仕合わせ(室町時代) 。相手が天ではなく、人間に変わった。
  人と人との関係がうまくいこくことを「しあわせ」と呼んだ。

…だったそうです。それが明治時代から近代化、個人主義が強くなり、今の
「幸せ」の概念、「獲得するもの」に変わっていったわけです。
つまり、近代人に限っての概念であり、たかだか100年ちょっとのことなのです。
もとの「シアワセ」は自然に任せる、あるがままに従うことを指したのです。

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その現代の人々に、「幸せとは何か?」と訊くと、判を押したように「人それぞれ」
という答えが返ってきます。
うん、そんなことわかっています。だからその人それぞれであるところの「幸せ」
とはいったい何かと訊いているのだから、全く答えになっていないのですけどね。

「哺乳類って何?」って訊いたのに、「犬や猫、いろいろだよ」と答えられたら、
あなた、怒りませんか?種類・条件ではなく、定義を尋ねられているのですから。
仮に「幸せ」と言う言葉を知らない人が、「シアワセとは何か?」と訊いてきたら
何と答えますか?「人それぞれ」では答えになりませんよね。

幸せの定義とは何か?

「楽しい」「嬉しい」は感情です。感情は感情として、確かにそこにあります。
しかし「幸せ」はいかなる感情でもありません。なにか感情の総称でもありません。
では幸せとは何か?説明してください。

説明できないということは、わかっていないということですね。でも、自分でも
わかっていないものに、いったいどうやって幸せになることなどができますか。

人それぞれ違って、目に見えなくて、感情でもない、知識でもない。さらに
説明することもできない。しかし人は、それが確かにあるという。
でも、あるのは「幸せ」という名前だけではないですか。それ以外には何もない
わけですよね。だったら、幸せとはそういうものです。名前だけあって、何もない。

なんと人々は揃いも揃って、何も無いものに名前だけをつけて、それを望んでいたの
です。それになりたい、なれないと、一喜一憂していたのです。
つまり、今の「幸せ」という言葉は、その言葉の指し示す対象のない、つまり概念の
ない、名前だけの幽霊みたいなものです。

たとえば「しあわせ」の言葉が、この世から消滅したとして、何か一つでも困ること
がありますか?

「人は幸せのために生きている」?大丈夫です。全部ただの思いこみですから。
そんな思い込みは無くても、いいことがあれば「楽しい・嬉しい」と思えるし、
それを目標に生きることもできるから。何か問題がありますか。

「幸せになれない」。そう悩む人がいます。
しかし悩むなら、「幸せになりたい」「幸せとは何か」「これが私の幸せだ」
そう思うことを、一切やめればいいと思います。何も困ることはありませんから。
人生における目標も、やりがいも、喜びや、楽しさや、嬉しさも、
そっくりそのままそこに残っているはずですから。

「幸せにならなければいけない」などということなどは、ないのですから。
違いますか?

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幸せはもっと大きなものを括る概念だという人もいます。
では、人生で一番大きなものとは何ですか?人生そのものですね。

ではここに今、一人のある人が亡くなられたとします。死因は問いません。
彼の人生は幸せだったのでしょうか?
それは他人が決めるものではありませんね。幸せは人それぞれ何ですから。
他人が決めても、決まりませんよね。価値観は人それぞれなのだから。

ならば自分で決めるしかないんですけど、幸せだったかどうかを決める人は
既に亡くなっているんだから、もう誰にも決められません。
ほらやっぱり。「幸せ」という言葉はここでも意味が無いのです。

では、「幸せという言葉に、意味は無い」と言う言葉に意味はあるでしょうか。

もとろん、無いです。正確には、無い人には無い、ある人にはあります。
幸せも同じです。意味が無いと思えば無い。あると思えばある。

決めつける必要はありません。どちらでもいいことなのですから。
※おんなじようなこと繰り返し言っているようですが…。


「十人十色」「価値観は人それぞれ」

ごもっとも。だからどうした。

価値観は人それぞれでも、価値は価値として認められて固定しているから
価値なのです。金の価値が明日突然石ころ同然になるようなら、金は価値
ではありえません。

蝶番は片方が壁に固定されているからこそ、扉は自由に開閉します。
動く者どうしに蝶番を固定しても、扉にはなりません。共倒れです。

何を価値と思うのかはその人の自由ですが、価値自体はその人によって
決める事はできません。当たり前です。
何を買うかは自由ですけど、値段は自分で決められないでしょうが。

したがって、
「Aの価値よりBの価値の方が、道理によって価値があることになる」。
そのような説明に対して、「価値観は人それぞれ」と答えを返すのは、
「200円のリンゴ2個より、80円のミカン6個のほうが価値がある」
と言うのに対して、「価値観は人それぞれ」と返すのと等しいことになります。


「正しさは人それぞれ、何が正しいかはだれにも決められない」
???

…アホですか?

正しさは“決められるもの”ではなくて、“決まるもの”なんですよ。
なんでもかんでも、人の意志によるものだと思ったら、大間違いです。
少なくとも、あなたが決めるものでないことだけは、絶対に確実です。

では、価値と正しさは、何によって決まるのか?

  ・価値と倫理的正しさは、多数によって決まります。
  ・論理的正しさは、最初から決まっています。

したがって。
  ・価値と倫理的正しさは、相対的です。
  ・論理的正しさは絶対的です。

そして、
  ・前者についての私見を述べる事が、「意見」です。
  ・後者によって前者について述べる事が、「批判」です。

「意見」と「批判」を、そのつど必要に応じて使い分けることを
「分別」といいます。

したがって、「私はこう思う」と、意見のみを述べる事を指して
「分別が無い」といいます。

分別のない人は、自分の“思った”ことしか言いません。
自身の意見の正しさの理由を“考えて”述べる事ができません。
「思ったこと=正しいこと」と信じて疑いません。

したがって、話をしても話になりません。おきをつけを。



十人十色を個性尊重の言葉と思っている人はたくさんいます。
しかしこれ、実は間違いです。あれは個性を認めない言葉なのです。
慧眼を持つ私の知人が、「十人十色は十把一絡げだ」と言いましたが、
まさしくその通りです。

十人十色はただの事実に対する言及です。
各々個人に特徴がある。違いがある。それだけのことです。
事実言及のそこに、価値に対する言及を含むことはできません。
各々個別の価値観を持つことは、間違いありませんが、
価値観は価値観であり、価値そのものではありません。

【価値】とは、比較し、そこに差が生じる事で価値でありえます。
ここを勘違いするのでしょうが「違い」と「差」は異なります。

10人それぞれ違っても、違っているだけだったら、そこに価値は生じません。
10人が同じ性質のものを比較して、10人のうちで突出して秀でているからこそ、
それは価値であるのです。

各個人の、どのような性質において、他とどれほど差があるか。
そしてその差が、他者に価値としてどれほど認められるか。
これを吟味することが、その人の個性を認めるということです。

十人十色は、その言葉の範疇を少しでも超えれば、個性を潰すような
ものの見方に変貌してしまいます。

80点の人もいれば20点の人もいる。それを「どれもみんなステキです」と
全部にハナマルをつけてお終いにする、バカ教師のようなものです。
まさしく十把一絡げではないですか。
何でもかんでも「ステキステキ」って言っている人の選択眼を、あなたは
信用できますか?お世辞を言っているとは、少しも思いませんか。

「ナンバーワンにならなくていい。みんなオンリーワンだから」。
どこかの歌じゃないけど。
自身をどう思おうが、構いません。孤独なオンリーワン、それもけっこう。

しかし、何かを価値と認める以上、ナンバーワンはやっぱりいるわけで、
それをきちんと認める事が、個性を重んじるということです。

人を認めるということは、そういうことです。

言葉というのは怖ろしいもので、それに慣れてしまうとその意味を考えずに
使われてしまうことが、よく起こります。

個性を重んじる人がよく使う言葉に、「十人十色」があります。
そのあとには決まって、「好みは人それぞれ、考え方も人それぞれ」と続きます。
とくに、自分の主張を否定された時になどに、頻繁に使われる傾向があります。
「ソレハアナタノ イケンデス。あなたはあなた、わたしはわたし。」
どこまでも、平行線。パラレルワールド。

もちろん、人間はすべて個人である以上、個別の肉体を持ち、個別の生存環境に
あるため、個別の趣向や好みを持ち、個別のことを思っております。

ところで、200円のリンゴ3個と、80円のみかん2個を買う時、200×3+80×2と
考えますよね。足し算で計算する人でも、掛け算を覚えたら、先の計算の仕方を
しますよね。効率のよい他の計算の仕方は無いですよね。

A地点からB地点まで、最も早く行かなければならないとき、制約条件が無ければ
最短距離を探して行きますよね。ワザワザ遠回りしていく人はいませんよね。
これが考えるということなのですけど。これのどこが十人十色ですか?

まともな考え方をする人ならば、必ず同じ考え方をしますよね。別の考え方をして
もいいけど、そういう人は「まともな人」とは扱われないですよね。
「考え方」というのは、Aという前提でBという条件だとCになる、というような
推論の仕方です。これは論理法則に従うということであり、自由などではありません。
ということは、「考え方は十人十色」どころか、万人一色ですよね。違いますか?

確かに、人の「好み」や「感じ方」や「思い方」は人それぞれです。
しかし、人はよくここを勘違いしますが、「思う」と「考える」は違います。

価値観というのも人それぞれです。しかし、同じ価値観で、同じ条件が揃っている
場合、そこから導かれる判断が人それぞれになることってありますか?
異なってもいいのは、価値観、趣向、条件であって、判断の仕方まで違っていい
わけではないですよね。違っていたら「判断を誤った」と言われるだけです。
赤信号に対する判断が十人十色だったら、事故が起こります。当たり前でしょうが。

そもそも言葉がなぜ通じると思いますか?同じものや概念を、同じ名前で呼ぶから
です。四足で毛が生えていて、ワンワン鳴く動物を、揃いも揃って「犬」と呼ぶから、
「犬」という言葉が通じるわけですよね。言葉も論理も考え方も、それが共通している
から他人に通じるのであって、そうでなければそれらは全く機能しません。
ものすごく当たり前のことですが。

このように、人それぞれ違うことと、誰にも共通することの間には、明白な境界線と
いうものがあります。その共通するところの論理、道理に従って導き出されることを
述べる事が「考え」であり、共通しないところの趣味、好み、信条によって述べられて
いるものを「感想」とか「意見」といいます。

いろんな感想・意見があるってことに間違いないですよ。
でも実際、十人十色っていうほどいろんな意見があることなんて、体験したことあります?
意見がいろいろあっても、大まかに分ければ二つ三つとか、そんなもんでしょ?
何故だと思います?人間には分析力ってもんがあるからですよ。
いろいろ意見があっても、グループ分けをして自分のわかりすいように類型化するのが、
理性というものです。「いろいろ意見がある」なんていうのは、ようするに分析力が無い
ことを、自らアピールしているようなものです。威張って言うことじゃありません。

「十人十色」「ひとそれぞれ」の言葉を多用する人は、なんでもそれで片づける癖が
ついている人が多いです。「感想」も「意見」も「考え」も、全部ひとまとめに「意見」と
呼んでしまいます。そしてその「意見」に至る過程を省略して、結論のみを語ります。

さらに、ほぼ例外なく、自分がの述べている事をどんなに指摘されようと、その点には
無反省であり、「私は私」と言って突っぱねます。

なぜそうするか。説明できるような考えた過程など、最初から持っていないからです。
そして、楽だからです。だから癖になるんです。「十人十色」「ひとそれぞれ」、
それさえ言っていれば、他人と衝突しなくてもいいし、考える必要もないですから。

ただし、確実にバカになります。考える癖が無くなるからです。そりゃそうですよ。
言っている事は、「そんなん俺の勝手だろ!」という、反抗期の中学生と同じレベル
なんですから。

「人それぞれ」。確かに。
しかし本当に大事ななものは人それぞれですか。どれも平等に大事ですか?
しかし、大事というのはその名の通り、「おおごと」ですよね。何かと何かを比べて
より「おおごと」なものが、より大事なわけですよね。

大事なもののを量るモノサシの名を「価値」といいますよね。自分一人だけが大事な
ものと、100人が大事なものでは、どちらが価値がありますか?
ならば最も価値のあるものとは何ですか?全ての人に共通するものですよね。
全ての人に共通するもの、それは何ですか?

「生きる価値」について、考えている人がいました。

これは最大の難問にして、最も無駄な問いです。
なぜならそれは、問いとして成立していないからです。

答えは簡単です。
「相手による」。当たり前です。

価値とは必ず、何ものかにとっての価値です。
ある人にとっては価値であるものが、
別の人にとっては無価値であったりします。

当然、その程度はまちまちだし、
時と場合によってそれは常に変化し続けます。
1か0のデジタルではありません。

では、「自分にとって、自分は価値があるか?」
この答えも簡単です。

自分の存在は、価値の有る無しを超えている。
価値を決めるのが、自分であるのだから、
それ自体の価値を問うことは絶対に不可能。

人生の、その上に起こる様々な現象に対しての価値や意味が
問えるのであり、人生それ自体の価値や意味は問うことはできない。
量りは、その量り自体を量ることだけは、絶対にできない。

したがって、完全に無意味な問いである。これが答えです。

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「生きる意味とは?」とか「生きる価値とは何か?」とか、
そんなくだらない事は、深刻ぶって考えたふりをしているだけです。
思い悩んでいるかもしれませんが、考えている事にはなりません。
きちんと考えれば、問い自体の無意味さがわかるはずですもの。

それを考えるのなら、その前に「考える」とはどういうことかを
少しは考えたらどうなのか。考えるということはそういうことです。

そもそも「意味」とはどういう意味か。「価値」とはなにか。
それがわかっていなければ、先の答えなど出るわけないのです。
「人生の意味や価値を探す」などという、適当な事を言う人もいますが、
それが何か自分でわかっていないものを、どうやって探すというのですか。
何が欲しいのかもわからずに、買い物することができますか?

なのに「意味」や「価値」というものを、少しも疑わず信じている。
何を問うているのかがわかっていないのだから、いくら頭をひねっても、
答えが出るはずはありません。

「価値が無いから生きる意味が無い」「生きる意味が無いから死ぬ」。

じゃあ、一つきくけど、生き物は「意味」や「価値」が無ければ
生きてちゃいけないのですか?
人知れず、ひっそり生まれて、ひっそり消えていくあれらほとんどの
動物たちは、何か「意味」や「価値」のために生きているのですか?
種族保存?食物連鎖?そんなの、全部人間が勝手に考えた理屈ですよ。

「意味」や「価値」なんていうのは、人間が社会で生きていくうえでの
本体に付属するオマケのモノサシの目盛りみたいなものです。
本体に付属する目盛りで、どうやって本体を測るの?
存在するからモノサシがあるわけで、モノサシのために存在するわけじゃ
あるまいて。

「生きる」つまり、「存在」するという最も根源を意味する言葉に、
「意味」とか「価値」という言葉がついていると、大抵の場合、
このように本末転倒した形になっています。

ものには順番があるって事を、少しは憶えておいた方がいいのですが。



「幸せって何」という言葉をインターネットで検索すると、
実に毎日多くの人々が、このことについて書いていらっしゃるようです。

一番多いのが「わたしにとっての」という独白です。
「~があることが幸せ」「~になることが幸せ」というものです。

つまりは欲望、願望、希望の状態・条件のことです。
しかし、それらを手に入れたとしても、結局は飽きたり、なくなったり
こわれたりするので、次のところに行きつきます。

幸せは、ひとそれぞれ。「自分が決めたものが幸せ」。
ええ、まあその通りではあるのですが。
その通りであるからこそ、その言葉はまったく無意味であると
いうことに、何故気が付かないのでしょうか。

ひとそれぞれ、自分で決めたものが答え。
それはつまり、なんでもありということで、なんでもいいということです。

なんでもいいということは、ようするにどうでもいいということです。
どうでもいいものは、考えるだけムダということになります。

じっさい、自分で「これが幸せだ」と勝手に決め付けておいて、
その状態に今ないから、「今の自分は幸せではない」と思うなら、
自分で自分の首を絞めているようなものじゃないですか。

いや、「今あるものが幸せなんだ」というのならば、なお簡単な事。

幸せとは、「私の幸せとはなにか?」などと考えないこと。
あるいは、「私の幸せとはこれだ!」などと決めつけないこと。
これに限るじゃないですか。考えるだけバカみたいでしょうが。

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いったいみなさん、「幸せ」なんて何ものかだと本気で思っているのですか?
たとえそれが、「心の状態」だとしても、そんなものがあり得ると
本気で思っているのですか?

ためしに想像してみてください。
もし、この世に「幸せ」という言葉が無かったとしたら、
何か困ることがありますか?

そんな言葉が無くても、そのとき心にある状態は、「嬉しい」とか
「楽しい」とか「気持ちいい」とか、それぞれの感情が在るだけだし、
それで十分じゃないですか。

それらの感情を一括りにするために「幸せ」という言葉を
使っているだけですよね。
でも、一括りにしているのに、結局「人それぞれ」っていうんですよね。
じゃあ、「幸せ」という言葉で一括りにする意味が全くないですよね。

ならば、答えは簡単です。
「幸せ」なんてものは、無い。これが答えです。

無いものを、あると信じて、「幸せにならなければいけない」と思いこむ。
これが不幸の始まりです。

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そもそも、「幸せ」って、追い求めるようなものじゃないんです。
難、トラブル、不幸。そういうものがあって、それを逃れた。
その時に感じるもの、「…ああ、よかった」「…助かった」。
その時なんと思いますか?「命あってのもの種」でしょ。
それが「幸せ」なんです。もともとはそういうものだったんです。

だから、「辛い」という字に、フタをしてあるのが「幸」なんでしょうが。
「災い(わざわい)」に対しての「幸い(さいわい)」なんですよ。
災難というマイナスがあって、災難が無いというゼロを幸せに思う。
ゼロの状態を「在り難い」ということに気が付くことが、「幸せ」なのです。
ちなみに、禍いというマイナスに対するプラスとは、「幸」ではなく「福」です。

つまり、「もっと幸せになりたい」という人は、もっと不幸を味わわないと
ダメなんですよ。それでもあなた、[もっと幸せになりたい」なんて思いますか。

「幸せ」はそういう言葉です。「辛い」があるから「幸せ」があるんです。
なのに「幸せ」という言葉が独り歩きしてしまい、それを勝手に間違って
勝手に幸せがあると思い込んで、勝手に一喜一憂しているだけなんです。
バカみたいだと思いませんか?

それと同じで「自由」「便利」という言葉も同じです。
先に「不自由」「不便」があるから、「自由」「便利」があるのです。

「幸せ」も「自由」も「便利」も、その反対があって初めて存在する
なにものかなのです。追い求めるものではありません。
 【「お金持ちが幸せとは限らない」と、
   お金持ちになって実感してみたい。】

とある宝くじの広告のキャッチコピーです。

つまり、「幸せでない」という状態を
ワザワザ実感してみたいと、言っていることになります。

ようするに、

「幸せになるとかどうでもいいから、とにかく金が欲しい。」

そう思え。と、言っているのと同じことになります。

人をバカにするにも程があると思うのですが。

こんな文章を思いつくコピーライターって、言葉に対する

何か大切な感覚を、完全に失っていると思います。



前回は「夢とは何か」について書きました。

ところで、この「夢とは何か」という言葉が、世の中でどのように使われて
いるかと言うと、「将来の夢」という意味でつかわれている事が多いんですね。

昨夜見た夢という意味での夢について、「夢とは何か?」なんてことを考える
人なんて、心理学者でもない限りいないのかもしれません。

もう一方の「将来の夢」なんて意味での夢は、一般に大変ウケがいいようで
よくつかわれる言葉なんですが、どうしてこれが「夢」なんて呼ばれるのか。
私には不思議でかなわないのですが、みなさんは何とも思わないのでしょうか。

本来の夢って寝ている間に見るものであって、寝ている間に見たものを、他人に
話せば、「寝言は寝て言え」とか言われますよね。
でも「将来の夢」なんてことは、割とまじめなビジネスシーンなどにおいても
普通に使われます。

「将来の夢」というのは「将来実現したいこと」ですよね。だったら、「夢」なんて
夢みたいなこと言っていないで、「目標」とか「希望」とか言えばいいと思うのです
が、なんで「夢」なんでしょうか?
そんな不確かな、そんなすぐ忘れてしまうような「夢」なんて言葉を使っている
意味がよくわかりません。

ましてや、本来の夢って、一人でしか見る事ができないものなのに、「みんなで同じ
夢を追いかけよう」とか、「夢は一人で見るものじゃない」などと、わけのわからない
ことですよね。全く正反対の性質のなのだから、「夢」なんて言葉を使うのは
止めた方がよいと思うのですが、夢を追っている人は、つまりは寝ぼけているんだから、
そういう言葉のことなんて気にしないのでしょうか。

夢を見るということは、徹頭徹尾に個人的な体験です。同じ映画を誰かと
見るといったような、他人と共有する要素がいっさいありません。
夢から醒めたときのあの不思議な感覚は、夢の内容のせいなのではなく、
そのように共有体験が全くできない固有の体験であるという、夢の形式の
ほうにあるのだ思います。

あらゆる現実は、物や映像などの何らかのものを通して、他人と共通体験
をすることが可能ですが、夢にはそれができません。夢と現実の違いは
ここにあります。それでは、他人との比較ではなく、自分という個人に
おいて、夢と現実の違いは、いったいどこにあるのでしょう。

夢とは何か?夢の本質とは、「眠っている間に見る」ということにあります。
覚醒している時に夢はみません。夢は必ず眠っている間に見ます。
そして眠りの本質とは、「自分が眠っているという自覚が無い」ことにあります。
つまり、眠っている時は自分が眠っているとは絶対にわかりません。

したがって、夢というのは、覚醒した時に初めて「夢だった」と過去形で気付く
ものであり、夢を見ている最中に、「自分は夢を見ている」と、現在進行形で
意識することはありえません。
つまり、夢の本質は、夢の内容には一切関係がありません。どんなに現実的な
夢を見ていても、覚醒しない限り、夢を見ているということはわかりません。

眠りから目覚めて、「夢を見ていた」と気付いた時の、あの感覚。すぐに
忘れてしまうけど、あのちょっと悲しい感覚、あれってなんなのでしょうか。
夢はそれが、どんなに突拍子もないような、非現実的な夢であっても、夢を
見ている間は、必ずそれを現実だと思って見ています。

夢から醒めたときに感じるあのもの哀しさは、現実だと思っていたものが
全て嘘だった。確かにあったそれが、もう二度と戻ってこない。夢の中にあった
あの場所、あの人たちはもう二度と会えない。そう思うところからきているのだ
と思います。

そしてその瞬間。

自分の過去の現実も、実は夢と全く同じだことに気が付くのです。
遠い昔の楽しかった思い出、確かにあったはずのあの過去が、全て夢と同じく
二度と戻ってこないものだということに、図らずも気付いてしまうのです。
そんなこと、あたりまえすぎて普段は意識していないのに、目覚めた瞬間に
だしぬけにその事実を突き付けられる。この唐突さに戸惑いながら、その事実に
対して、哀しみを覚えざるを得ないのです。

現実だと思っていたものが、全部夢だった。確かにあると思っていた自分の過去
でさえ、それは夢と同じで、全てはもうどこにも無い。在るのは今この現在だけ。

それなのにいつもと変わない今日。知らない顔をして坦々と現実は過ぎ去っていく。

あれはいったい、どこにいったんだろう。

   
   あの時代は なんだったのですか
   あのときめきは なんだったのですか

   みんな夢でありました
   みんな夢でありました

   悲しいほどに ありのままの
   君と僕が ここにいる     
   ※歌詞 森田 童子


自分の人生の過去は、今それを思っている現在にしか無いのです。
人類の歴史という過去も、今それを思っているここにしか無いのです。

その事実に気付いたそのとき、人は 予感してしまうのです。

人生も歴史も宇宙も、すべては夢だったのだと。

それはけっして覚める事のない眠りの中で見ている夢なのだと。

夢の中の自分。それがたとえどんな自分であっても、「自分である」ということを
疑うことなど、今の今まで一度でもあり得ただろうか?

だとしたら、この今の自分が確実に夢ではないといえる根拠などは、
いっさいどこにもありえないわけで。



ならば、けして醒めることのないこの夢は、いったい誰が見ているんだろう。