仕事して、本を読んで、娘と過ごしていました。

久しぶりに娘といろいろ話をして、相変わらずのスレてなさにびっくりしたり。

だって話しながらぼくの膝に乗ってくるんですよ!中学生なのに!

昔ワイドショーで、水泳の女子五輪選手がお父さんの膝に座ってテレビ見てるシーンがあって、

ありえないだろ!と思ったけど、まさか自分が娘とそんなことするようになるとは…。

ぼくは中学生になった時点で完全に親をうざったく思っていたので、考えられないです。

ま、そのうちぼくもうざったがられるんだろうから、なつかれてるうちが華なんだとは思いますが。


来週締め切りの企画書が全然書けないでいるのですが、不思議なことに焦りはありません。

ひとつ、書きたいのがあって、それは明日にでも仕上げようと思うのですが、

それ以上の何かが浮かんでくる気がしないんですよね。今回は。

まあ、書きたくないなら書かなくていいか、って思ってます。

すごく自信過剰なことを言えば、ただ企画を通すだけの段階は過ぎたかな、と思って。

もう少し先に行きたい気がするんです。

いままでと違う、ちょっと別の場所へ。


ジジェクの近刊「ラカンはこう読め!」(紀伊国屋書店)を読んで、

ラカンがいう「想像界」と「象徴界」と「現実界」との差が、ようやくわかりかけた気がしてきました。

すごく意訳すれば、「想像界」は「理想の自分がいる世界」、

「象徴界」は「言語によって切り分けられた世界(=われわれのいる場所)」、

「現実界」は「言語化できないありのままの“何か”の世界」

ということになるかと思うんですが(たとえば「性的享楽(エクスタシーとか)」は「現実界」だそうです)、

そういう枠組みで日本の近代文学作品を見ると、「後世に残っているもの」は

「象徴界の裂け目から現実界を覗いた」もののような気がするんですよね、漱石とか、賢治とか、太宰とか。

一方で、それほど読み継がれない作品って、「象徴界の枠組みの中をスケッチした」ものにとどまっている

気がするんです。三島とか、鴎外とか、志賀直哉とかね。

たぶん「象徴界」は時代によって変動するけれど、「現実界」はもっと「根源的」で「普遍的」だから、

なんじゃないかと思います。わけわかんなくてごめんなさい。

でね。

「“現実界”に触れるものを作りたい」って思うんですよ。

ただ表象を撫でるだけのものじゃなく。見ている人の心をざわつかせるものを。

それがどういうかたちのものになるのかわからないんだけど。

そんなことがぼくのいるジャンルで出来るのかどうかわからないけれど。

それに、まだ全然何も思いついてないんだけど。

ちょっとそんなことを考えた、連休(じゃなかったけど)最後の夜でした。

このことはしばらく(あっちの世界に行かない程度に)つきつめて考えようと思います。