信長と家康が日本人の同調圧力について論じたら #2 | 福永英樹ブログ

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信長:いや個人の足を引っ張り、頭を叩き、何としても組織に埋没させようとする社会をつくったのは、間違いなく家康のやったことじゃ。それは、こ奴の重臣どもの物言いを聞けば容易にわかることじゃ。

家康:徳川の重臣が何を申したと言うのです?

信長:あれは姉川の戦勝祝いのおりじゃった。わしが朝倉の横手を突き崩すという武功を挙げた榊原小平太を褒めちぎり、自慢話をさせようとしたところ、小平太めはこう抜かしよった。『我が殿(家康)が形勢を見定めながら、敵の強勢に逆らうことなく満を持して迎え討てと命じたため、それがしはその通りにしたまでのこと。すべては殿の駆け引きと、統率の力の賜物と存じます』 さらに兜首を取った足軽に特別に拝謁を許すと申したら、『当家では足軽風情をこのような席に招くことなどありえませぬ』と返してきよった。

家康:わかりませぬな。それのどこか悪いのです。小平太めは模範的な返答をしたまでのこと。

信長:それなら教えてやるゆえ、その耳でよう聞け! お前の組織・身分制・集団性重視の姿勢は、日本人に異常とも言える組織への過剰な忠誠心を産み出した。まず家臣や領民どもは累代にわたる相互扶助と規制を強いられ、個人が全体に同化することにより団結することを継続させられた。個人は集団における役割や任務を果たすことにより自らの存在意義を認識し、それによって満足感や幸福感を得ていくようお前が意図的に仕向けたのじゃ。

家康:それこそが、日本人の助け合いの精神を培ったものと自負しておりますが・・・。

信長:いや助け合いと申せば聞こえが良いが、日本人に集団からはみ出ることを極端に恐れる特異な気質を根付かせたのじゃ。組織と申すものは時代の変化に合わせて変わっていかねば役割を失い、やがては形骸化してゆく。変化に合わせて組織を変えていくためには、改革が必要であり、誰かが強力なイニシアチブを発揮していかねばならぬのじゃ。それなのにお前がつくった日本人独特の同調圧力が、改革をしようとする個性の芽をすべて摘み取ってしまった。欧州や米国が領土に鉄道を走らせる時代になっても、日の本は年貢(米)だけで国家の財政を賄っていた。わしが家康より長く生きておればと、天で幾度地団駄踏んで悔やんだことか・・・。

秀長:上様らしい鋭いご指摘じゃと存じますが、ここは家康殿の言い分もとくと聞くことに致しましょう。

家康:確かにわしの愚息や出来の悪い孫が国を閉ざしてしまったため、諸外国に遅れを取ったことは認めましょう。しかしながら江戸幕府は250年を越える天下泰平を保ちました。これは諸国を見渡しても希少な功績・・・。これは徳川が、最も信頼していた明智光秀殿に謀反されるような無様な組織ではなかったからに他なりませぬ。

信長:な、何じゃと!

 

※次回へ続く