ドン・フェルダーの寂しき告悔(フライ氏死去) | 福永英樹ブログ

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 イーグルス(Eagles)のリーダーであったグレン・フライ(Glenn Frey)が病死してから約二週間が過ぎ、ようやくこの現実を受けとめられるようになりました。これは偶然なのですが、彼の死の前日に彼らのDVD(1977年ニューヨーク公演)を久しぶりに聴いていたのです…。そして他のメンバーたちが悲痛なフライへの追悼のコメントを残す中で、最も悲しくて寂しい次のような別れの言葉(要約)を残したのが、フライの宿敵ともいえるドン・フェルダー(Don Felder)でした。

 

グレンの死が信じられず今の私はショック状態にあります。まったく予期していなかったことで、悲しみに満ち一人取り残されるような心境ですグレンは素晴らしい才能に溢れており、とてつもなく才能に溢れたソングライター、アレンジャー、リーダー、シンガー、ギタストでした。皆そう思ってるでしょうし、グレンは即座に期待に応え得るマジックを生み出すことができる人だったのです。グレンの楽曲や歌詞へのヴィジョンと洞察は伝説的なものとなっていて、この先何十年もの間、絶えず認められることになるでしょう。1974年にイーグルスに加入するように誘ってくれたのがグレンでした。グレンの側で長い間一緒に仕事をして過ごすことができたのは、私の人生にとって貴重な贈り物でした。グレンは愉快で、強く、寛容で、優しい人でした。兄弟のように感じていましたし、兄弟のようだからこそ食い違うこともありました。でも、そうした難しい時でも何とか僕らはマジカルな楽曲を作ることができましたし、素晴らしい思い出や素晴らしいレコーディングやライブを生み出すことができたのです。グレンのステージでのカリスマ性は世界中の多くの人に知られ、愛されてきました。笑いと歌とパーティとハグと兄弟のような絆に満ちた旅を、僕らはかなりの距離やってきたのです。グレンはバンドのジェームス・ディーンでした。方向性を探している時のリーダーでしたし、バンドで最もクールな男だったのです。僕らの間の問題に一緒に取り組んだり、話したりすることができないと思うと大変悲しくなります。悲しいことに、もうその機会はないのですね。この星は偉大な人を、偉大なミュージシャンを失いました。誰も彼の代わりなんて務められないでしょう。安らかに、グレン。そして、君と遺族に神のご加護がありますように』

 

 確かにグレン・フライは日本史で言えば豊臣秀吉のような性格で、バンドが世界的なトップグループとして認められるような大成功をおさめるためには、すべてを割り切るような強引なところがありました。ですからバンドが1980年に解散した時も、他のメンバーは最終的に公平・約束・契約を優先するフェルダーの側につきフライは孤立したのです。しかし我々イーグルスファンは、フライの暴君ぶりに憤慨しつつも、不思議と彼を憎む気にはなれませんでした。それはフライが、誰もがやりたがらないようなバンド運営に必要な泥臭く汚い部分を一手に引き受けてきたことを知っていたからです。そしてその目的は、バンド内の平等より芸術性の追求イーグルスファンの期待に応えるためだったのです。

 

 

 解散から14年後にイーグルスは再結成(1994年)され、ニューアルバムまで発表し世間を驚かせました。当時46歳のフライと、47歳だったフェルダーは、今度こそ仲直りして意気投合したものと誰もが思いました。

 ところが90年代の後半くらいから、フライが「イーグルスは元々歌指向のバンド」だとか、「フェルダーはバンドに貢献していない」と言うようになります。結局2000年にフェルダーは、フライから解雇を言い渡されます。フェルダーは解雇撤回と報酬の見直しを求めて告訴し、示談の末にほぼ勝利しました。しかしフェルダーイーグルスのメンバーとして活動することは二度とできなくなり、、インタビューにおいてその寂しさを隠しきれない様子を世間に吐露することになりました。

 

 こんな悔いで一杯の追悼文(社交辞令が混じっているにせよ)を出すくらいなら、なぜ協調して二度目のグループ活動を続けなかったのでしょうか? ファンは良く知っています。フライフェルダーがサウンドづくりの中心としてその個性を融合していた呪われた夜(アルバム)からホテル・カリフォルニア(アルバム)の頃の楽曲が一番魅力的であったことを…。悔やんでも悔やみきれないフェルダーの心中を察すると彼が哀れでなりませんが、今後の活動を通して本当のアーティスト魂を発揮して、是非フライの魂に近づいていってほしいものです。