豊臣秀長の三人の実子について | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀長実子については、娘が二人いたというのがこれまでの定説でした。

 養子については、彼の領地を引き継いだ甥(姉の三男)の豊臣秀保や、丹羽長秀の三男で、秀長の養子を経て最終的に藤堂高虎の養子となった藤堂高吉(仙丸)が有名で、これ以外に養女の岩(那古野氏)が、その存在を認められてきました。


 しかし、この小説を書くため様々な文献を調査する中で、実子の長男木下与一郎の存在が明らかになり、さらに娘二人の俗名と、彼女たちの母親は誰であるかについてもわかってきたのです。


【木下与一郎】

 秀長の養女であったは、美作国津山藩主の森忠政に嫁ぎ、彼の男子二人と女子三人を出産しています。森家先代実録によると、「岩は木下美濃守(秀長)息与一郎の室であったが、与一郎の死後に美濃守の養女となり、その後森家に嫁した」と記録されています。

 さらに秀吉・秀長兄弟の播磨国三木城攻め包囲軍武将配置図・君が峰の陣には、木下与一郎の名がはっきりと記されています。

 
福永英樹【志 豊臣秀長伝 著者】ブログ

 

それでは、この与一郎いつ亡くなったのかということになりますが、天正10年(1582年)本能寺の変直後に秀長丹羽長秀の三男である仙丸を自身の養子に迎えていますので、それ以前ということが推測できます。天正八年(1580年)一月に三木城は落城していますので、攻城中か、或いはその後の中国攻めの最中に病死か戦死した可能性が高そうです。

 与一郎の姓が「木下」である理由については、おそらく羽柴家宗家を、秀吉の実子であった石松丸、次いで養子羽柴秀勝(信長四男)が継ぐことに配慮して、与一郎が旧姓の木下を引継いだものと思われます。(木下姓は、与一郎死後に秀吉正室お寧の兄である家定が引き継いでいます)


 与一郎の母親については、秀長正室が長男の母であったという伝承(4月24日当ブログ投稿分にて説明)もあり、秀長の正室慈雲院(小説においては慶)で、まず間違えないでしょう。

 残念ながら、与一郎の墓所は不明のままです。


【三八(みや)・菊】

 長女が豊臣秀保の妻で、次女が毛利秀元(輝元の養子)の妻であることが定説として伝わっていますが、彼女たちの母親は誰で、俗名はどうだったのでしょうか?


 天正16年に秀長奈良長谷寺に寄進した金燈籠には、和州大納言秀長公姫君三八(みや)女と刻まれています。また、秀長養女で彼女たちの義姉であるが、森忠政との間に設けた長女の名を宮(みや)と名付け、次女をと名付けていることからも、長女が三八で次女がの可能性が高そうです。

 三八は秀長が病死する直前に当時13歳の豊臣秀保と結婚していますが、秀保が僅か17歳で不可解な死を遂げた後は、彼女がどうなったのかは不明です。秀長を祀る京都大徳寺大光院にある「養春院古仙慶寿大姉・1604年死去」という戒名をもつ墓が、おそらく彼女のものであると思われ、母親も秀長正室の慈雲院である可能性が高そうです。


 次女の大善院は、秀長の側室の腹から生まれています。秀吉の命で毛利輝元の養子である毛利秀元に嫁しますが、23歳の時、秀元の子を腹に宿しながら病死してしまいました。秀元はその後、側室に多くの娘を産ませますが、松菊子・長菊子・千菊子・万菊子と、いずれもを入れた名を付けています。が大和国人である菊岡家で密かに大善院を産んだことからも、次女の名はで間違えないようです。


 文禄三年(1594年)三月の『駒井日記』には、関白豊臣秀次が大和郡山城にいる弟秀保を訪問し、小早川秀秋秀長の側室の娘の婚儀に立ち会ったという記録があります。これまでこれは、秀保が結婚したのであり、秀秋は誤伝であるとされてきましたが、駒井日記を丹念に見ていくと、記録通り小早川秀秋と秀長次女のとの婚約式である事がわかります。この婚約式は秀保とその妻である三八(日記では上様とされている)が主催しており、来賓である関白秀次のほか、三八の母である慈雲院、菊の母である、藤の母親までもが参加しています。その後関白秀次の失脚により、これに連座した秀秋は太閤秀吉から遠ざけられたため、この婚約は解消され、最終的には毛利家に嫁ぐことになったという訳です。



■以上の通り、秀長の実子や養子たちのほとんどが短命で、逆に母親たちは70歳前後まで寿命を保ったようです。ただ一人90歳を超える長寿を誇ったのが藤堂家に移された仙丸(藤堂高吉)ですが、運命に翻弄され続けた彼の生涯を想うと、何とも言えぬ切なさを感じずにはいられません。