福永英樹ブログ

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歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 室町幕府第15代将軍足利義昭(1537~1597)による織田信長包囲網(武田・朝倉・浅井・三好)が瓦解した契機として知られるのは、三方が原の戦い(1573年)で徳川家康に勝利した甲斐国の武田信玄が上洛寸前に急死したことです。ただ将軍の座は追われたものの、中国地方の毛利輝元の庇護(1576年~)を受けた義昭は不屈の精神を発揮し、前回以上に強固な信長包囲網を構築しました。毛利を筆頭とし、これと連携させた摂津石山本願寺を頂点とする一向一揆勢力、信玄の遺児武田勝頼、丹波国波多野氏、紀伊国雑賀衆、そしてそれまで一向一揆という共通の敵がいたため信長に協力していた越後国の上杉謙信(1530~1578)まで包囲網に合流させたのです。つまり信長を討つために皆で協力しなさいと命じたわけです。特に謙信については、義昭が仲介して武田と本願寺(一向一揆)と仲直り(1576年)させるほど期待していたのです。


 1577年初頭に波多野氏が信長から離反、同年夏に毛利水軍が織田水軍を蹴散らして本願寺に兵糧を運ぶことに成功、さらに松永久秀が義昭の命令により織田家を離脱すると、遂に謙信が動きました。能登国と加賀国を攻略した謙信が、晩秋に勃発した手取川の戦いで柴田勝家(織田家北陸地方司令官)に大勝したのです。そればかりか謙信南下は、勝家とその同僚重臣羽柴秀吉との不和まで呼び込みました。歓喜した義昭は翌1578年春に上杉軍の織田領総攻撃を命じ、同時に三木城主別所長治ら播磨国人衆の信長離反を命じました。

 しかし出陣6日前に謙信が脳卒中で急死し、その結果上杉軍は後継者争いで完全に動けなくなってしまいます。生涯最大の難局(毛利と別所に挟まれる)にいた秀吉が何とか別所を倒すことができたのも、謙信急死により織田軍全体が分散せずに済んだからなのです。まず謙信健在なら明智光秀に波多野氏を攻める余裕がなくなり、対上杉に回らざるを得ませんでした。毛利も別所と呼応して播磨まで侵攻したに違いありません。本願寺も息を吹き替えして各地の一向宗門徒に奮起を促したことでしょう。家康も単独で武田氏と対峙することになりますので、信長を助ける余裕などなかったはずです。義昭から謙信上洛を前提に動くよう促されていた別所・波多野・本願寺・毛利らは、当然『あれ? 上杉はどうして挙兵しないの?!』となったことでしょう。


 つまり義昭の信長包囲網とは思いの外に緻密かつ的確で、成功する確率もかなり高かったということです。ただ信玄と謙信が急死するというアクシデントが彼を襲ったのは、やはり天が不安定で戦国乱世を呼び込んだ室町幕府体制には決して戻すまいと英断したからなのでしょう。謙信は相当の酒豪で今日でいう成人病をいくつも抱えていたようです。