闇雲に教育する教育者達
ぺんぎ~ん ペンギン! 可愛い~いな~♪
っていう歌があって 日舞で娘が踊ってたんだけど
娘が 手足の右左を間違えて 先生に叱られてから
もう 2度と娘は 日舞に行きたがらず
いつかまた 行くかと思ったけど 結局復活せず
このまま 自然消滅していきそうな感じ・・・・
親の欲目かもしれないけど 結構娘の踊り良かったのに
その右左がどうしても 逆になってしまう事で
どうしても 他のみんなと方向が合わず 注意しても
何しても 直らず とうとう怒られて嫌になってしまった
今考えたら そんな右左なんて どうでも良かったのに
根本的な 踊りの基礎を身につけた方が 良かったのに
そんな小さい事で やめてしまって 母として
イマイチ納得してなかったけど つい最近
左側にあるよ!って 娘にある物の位置を説明した時に
右側の方を 一生懸命探してた 娘の姿見て
なんか愕然としてしまった
踊りが問題なのではなく 左右の感覚が
まるっきり娘の場合 逆になってるんだと
それをいくら注意しても 無理だったわけで
それに早く気が付いてやらなかった 私に
責任があったんだな・・・・・と 反省
よく 親の教育 学校の教育とか 社会の教育があって
どれも 教える角度が違ってると思う
この間 テレビで妙に納得した いい話で
「家庭での教育 学校での教育は
社会に出たら 何の役にもたたない」
それは 本当に確かな事だった
私は 本当に社会に出て苦労した
なんで自分の考えが社会に通じないのか
ひとつも理解できなくて もがいてもがいて
もがき続けながら 働いてた気がする
それを 後に自分で分析したところ
本来なら 社会性という教育は 父親の役目だったかもしれない
昔は 母親は外に働いていなかったし 父親しか
社会を体験していなかったからだろう
頑固親父でも 社会経験者は父親だけだった
自分の父親は 早くに他界した(中2の時)
それでも 元々おとなしかった父親に 殴られた事も
怒られた記憶も 私にはない
どちらかと言うと 母親から父親に対しての愚痴しか
聞かされてなかったので 尊敬というよりは 軽蔑するような
そんな印象を与えられる 環境だった
だから 父親から社会性を教わる機会もないし
そんなことが 社会に出てから 必要だったと知った時に
それを教えてくれるような 大人は近くに居なかった
働き始めて 本当の苦労が私に襲ったんだ
私が 娘に対して 周りから見たら かなり教育熱心に
見えるようだけど
私は 娘をエリートにしたいとか 優秀な教育を受けさせたいとか
そういった角度で教育をしてるわけではなくて
自分が社会に出てから これを学んでいたら
どれだけ自分は楽だったろう・・・・と思った事を
娘に教育してるわけで
その中でも 一番重要視してたのが
コミュニケーション能力だった
どんなに仕事が出来ても どんない優秀でも
人の気持ちが理解出来ない人間になって
自分の気持ちを人に伝えれない人間になって
幸せな人生は ありえないだろうと 私は思ったので
自分のコミュニケーション能力が 欠けてる事で
暴力で人に伝える事も無く 冷静に言葉で伝える能力が
一番大切だと 私は思う
その為に 数十年後に 大人になって社会に出る
娘の時代も考えて 英語以外にも 多国の言葉も
必要だと思ったんだ
でも 教育で教える側に一番何が大事かって事は
学ぶ本人の状況に合ったものを ベストな状態で
与える だと思う
だから 本人が望んでない苦痛にしか感じないものを
与え続けるのは 私の教育論として 間違ってる
だから 今の学校教育は そんな事を無視して
ただ学校の都合で一方通行に与えてる状況を見ると
やはりそれは おかしいと思う
社会性との関連性を無視した 知識だけの教育とか
資格だとかの試験も 実践とはかけ離れた内容が多いし
それより 実践で役に立つ教育が もっと必要だと思う
丁稚奉公やれ とまで言わないけど
実践なしに 頭の教育のみで終る学校は もう意味がない
私が受けた英語教育の中で
一度も外人(ネイティブ)と会話することもなく
発音を聴く事も無かった
これがおかしいって 教育者達がおかしいと思わない方が
おかしい
もっと 学ぶ対象を見て 教育を考えて欲しいんです
そういう私も 娘の左右の感覚に気づかず
ただ闇雲に 踊りの右左を覚えさせようとしてた
娘が 日舞をやりたがらない方向にもっていったのは
私が原因だったと 気がついたんです。。。。