まずこの本で書かれていることを紹介していこう。
・今の東京の夜景は、世界で一番美しいかもしれない。…都市をテーマとしたテレビのドキュメンタリー番組で、世界の空を飛び回るパイロットたちの言葉が紹介されていた。
「いま、上空から眺めて一番きれいな夜景は東京」
世界の夜景を機上から眺め続けている人々の意見だけに説得力がある。…掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。…ものづくりに必要な資源とはまさにこの「美意識」ではないかと僕は最近思いはじめている。…幸いなことに、日本には天然資源がない。…今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。
→実に深い言葉だ。僕自身も、日本のガラパゴス化を問題視したことがあるのだが、最近は逆に日本の個性をもっと生かしていくことが重要なのではないかと考えている。ガラパゴス化にせよ、ガラパゴス化を反面教師としての最近の動きも、どっちもバランスが悪いのだ。前者は“そと”を見ずに“うち”に引きこもって、後者は“そと”ばかり見て、“うち”を十分見つめない。そのようなことを考えている中での原さんのこの言葉は、自分の中にすっと入ってきた。
・「JAPAN CAR 飽和した世界のためのデザイン」展は、そんな経緯で構想された展覧会の第一弾である。なぜ最初の展覧会が「クルマ」なのかという理由は、一番困難なテーマから始めることが肝要だと思われたからだ。クルマ産業が隆盛している日本では、主要な乗用車メーカーだけで八社あり、いずれも産業という森の生態系の頂点に君臨するオオタカのような企業である。これらの会社が、すんなりと我々の意見を受け入れてくれるとは考えがたいが、もし各社が連携してひとつのメッセージを作ることができたならば、それは画期的なメッセージとなり、世界から大きな興味を引き出せるかもしれない。さらに言えば、そういう規模の構想を実現できれば、あとはどんなものでもできる。そんな風に僕らは考えていた。
→なかなか面白い発想だ。普通はできることから積み上げていこうと考えるが、そういう考え方もできるのだ。しかしそういうことができるのも、本人に金や地位があるからだと思う。また、本人たちの生活に直結していないようなプロジェクトだから可能なのだろう。でも、そういうのって素敵だ。社会に出て生きること、金を稼ぐことに執着しすぎて、発想がちっちゃくならないようにしなきゃ。
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ちょっと筆者の言葉をそのまま抜き出すのはやめた。一つの主張が様々な部位に渡って書かれていて、効率が悪すぎる。次から要約していく。
・移動の未来について考える時に、技術の進歩や素材の革新だけからそれを想像するのはナンセンスで、そこには「こんな風に移動したい」という人間の欲望が働いている。例えばエンジンの発明はガソリンの爆発的燃焼を推進力を生みだす力に変えるという革新的な技術の飛躍が生み出したものだが、スピードというものへの憧れがないと、その欲望を形にするものは生まれなかった。現在のクルマの延長ではなく、未来の人間の欲望に影響力を持つリアルな移動体の可能性をいつかヴィジュアライズしてみたい。
→かっこいい。どの分野でも、新たなものを創造したいと考えている人に、絶対必要な視点だろう。今起きている個々の事象に戸惑わさせられるのではなく、物事の本質、ここでは人間の欲望というものに焦点をあて、その先を読んでいくということ。
・人間は世界を四角くデザインしてきた。四角は非常に不安定なので、自然の中で具体的に発言することが少ない。しかし、例えばバナナのような大きな葉を二つに折れば直線が生まれ、その折れ筋をそろえるようにもう一回折るとその折れ筋は直線になる。その延長線上に死角がある。つまり四角とは、人間にとって手をのばせばそこにある最も身近な最適性能、あるいは幾何学原理だったのだ。円もまた人間が好きな形の一つで、例えば硬い石をドリルのように回転させて、より柔らかい石を切り抜くと、ほぼ完璧な正円の穴を得ることができる。これもまた、回転という運動に即応して人の二本の手が、頭脳による推理や演繹より先に、正円を探り当てていたかもしれない。その四角と円という簡潔な幾何学的形態に基づいて、人間は環境をデザインしてきたのだ。
さて、スポーツ人類学の専門家によると、近代科学の発達と球技の発達は並行して進んできたという。ボールが丸くて、同じ動作に対するボールのリアクションが同じでないと、球技の上達は望めない。このように優れたデザインは人の行為の普遍性を表象している。デザインが人の行為の本質に寄り添っていないと、暮しも文化も熟成していかなかのだ。
→面白い。確かに人間の科学の本質は、“普遍性”を操ることにある。その時まず最初は、人間ができるだけ正確に作りやすい図形を使うのは当然だ。いやぁ面白い。生物を解剖学的に分析しても、四角は存在しない。なのにどうして人間の社会にはこんなに四角が溢れているのだろうか。という問いに答えてくれた内容だった。
・人間の作り出すものはプリミティブから複雑へと向かう。文化は複雑から始まった。現に中国の青銅器、イスラム文化圏の王宮やモスクにある幾何学紋様や唐草紋様、人間の肌に施す入れ墨、インドの建築を埋め尽くす象嵌細工、ヨーロッパのバロックやロココといった様式。世界が「力」によって統治され、「力」がせめぎ合って世界の流動性をつくっていた時代には、文化を象徴する人工物は力の表象として示された。しかし近代社会の到来によって、価値の基準は人が自由に生きることを基本に再編され、国は人々が生き生きと暮らすための仕組みを支えるサービスの一環になった。そして物は「力」の表象である必要がなくなった。単に機能を満たせばよくなった。科学の発達も合理主義的な考え方を助長する。そして次第に、資源や労力を最大限に効率よく運用しようとする姿勢としてシンプルという概念が生まれた。
一方、日本では数百年前にすでに「シンプル」と呼びたくなるような、簡潔な造形が発見できる。簡素を旨とする美意識の系譜は世界でも珍しい。
→確かにそう。すごく不思議。恐らく近代における「シンプル」とは、その合理性における価値が評価されていたのであろうが、日本ではさらにその先のステージ、「シンプルを美しい」とする意識を昔から持っていた。これはどうしてなのだろう?原さんがこの本の最初に書いていた、美意識の話と通じるところがあるのだろうが、日本には資源があまりなく、そのような中でも何かを表現しようとして、生まれた価値観なのではないだろうか。
・日本の家を輸出する。玄関で靴を脱ぐ暮らし方は、身体と環境界面が直に触れ合い、対話する未来型の住環境として大きな可能性を持っていると考えられる。そして家そのものがハイテク家電化したような、先端技術と住まいが合体したような製品なら、日本は優位にその可能性を見いだせるはずだ。床のカーペットに様々な先端技術を駆使し、そこで血圧、脈拍、体重、体温など様々な身体情報を感知できるかもしれない。すると人々の身体は家を介して病院とつながり、常に医療サービスにケアされるということも可能である。
→面白すぎる!!これに似たようなことは、間違いなくこれから起こってくる。
・アメリカの国立公園は情報のデザインが秩序だっていて、商業主義やノスタルジーときっぱりと一線を画して美しい。これは偉大なグラフィックデザイナー、マッシモ・ヴィネリの先見的な仕事が下地になっている。彼は国立公園のパブリケーション・デザインの基礎を整備した。具体的には、地図の読みやすさや美しさ、写真や文字のレイアウトなどを整理し、パンフレットなどの広報ツールを知的で統一のとれた作法へと導いたのである。国立公園を訪れ利用する人々が欲しがる情報、あるいはそういう人々が能動的に国立公園を動くために必要な情報というものがある。彼はその情報編集のための、美しく実用性のある仕組みを立ち上げた。そしてさらに重要なのは、国立公園の情報デザインを一人のデザイナーが占有統括するのではなく、個々の公園を運営管理する人たちが、進んでこの方式を学び習得できる仕組みを作り上げたのである。
デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。国立公園が互いに広報を競い合い、脈絡のないロゴや過剰なヴィジュアルを氾濫させてはならない。本当に機能している情報は、機能している時には見えなくなる。そうしないと、情報がノイズになってコミュニケーションの品質をそぐ。
→素晴らしい。一つの鋳型を作って、仲間で共有していくことはすごく重要だ。そして後半部分もまさにそう。今の世の中は情報が氾濫していて、何が何だかわからない。例えば美味しい料理店を探そうとしても、情報が多すぎて手にあまる。どれが美味しいのかわからない。まず、どれが信頼できる情報なのか、見極めるところからスタートだ。どこか病院にかかるにしてもそうだ。色々サイトができている。だから、まずどのサイトが一番信頼に足るのか調べるところからスタートしなければいけない。
・人間の創造性を飛躍させる媒質というものがある。例えば石器時代における「石」。石の「硬さ」や「重さ」、「程良い加工適性」は、ものを破壊したり切断したりする意欲を人間にもたらし、道具を使用する充足感を目覚めさせていったはずだ。さらに言えば、石器を作るという行為は、ただ作るのではなく、よりよく作る、より美しく作るという意識をすら目覚めさせたかもしれない。紙もまた同様である。その魅力は単に印刷できる枚葉性に集約されるものではんく、紙の触発力は、第一にはその「白さ」においてであり、さらにはその「張り」においてである。そのような紙の触発力によって、言葉や図を記し、活字を編んでいく能動性が、人間の感覚のうちにもたらされた。このような、人間の創造意欲を喚起する物質を、「センスウェア」と呼んでいる。
→非常に面白かった。人間が今まで発明してきた数々のものの中でも、人間の創造性という観点から眺めると上記のような考察が得られるのだ。
・ファッションとは何だろうか。人間は偏りをもって生まれ、歪みも癖も持ち合わせて生きているが、そういうものを全部飲みこんで、どっかりと開き直って生きている人々には、時代を経たタイ僕のような迫力が備わってくる。シミを取ったり、まぶたを二重にしたり、アゴの線を整えたりするのではとうてい太刀打ちできない、人間として強烈なオーラを発している。そして、そういう人は、才能ある服飾デザイナーが全身全霊を投じて創作したオートクチュールのパワーを見事に一身に引き受けて服を着こなしている。着られるものなら着てみろと言わんばかりの、斬新で独創的な服飾デザイナーの挑戦を、真正面から受けとめ、自身の進退と人的オーラでそれを増幅し、あたりに発散している。そういう雑誌を見るほどに、ファッションとは人生の芸術だという思いがつのり、おしゃれであるようりも存在感のある人になりたいと思うようになる。
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非常に面白い本だった。デザイナーという観点から、僕の全く知らない世界のことを語ってくれたり、僕とも共通した世界を全然違った風に捉えて語ってくれる。それが面白い。様々な分野、事象にまたがった面白い考察をしながらも、その根底にあるものはぶれない。そういう本、人ってすごく素敵だなぁと思う本だった。最近読んだ本の中でも、相当レベルが高くて、面白いものだった。
・今の東京の夜景は、世界で一番美しいかもしれない。…都市をテーマとしたテレビのドキュメンタリー番組で、世界の空を飛び回るパイロットたちの言葉が紹介されていた。
「いま、上空から眺めて一番きれいな夜景は東京」
世界の夜景を機上から眺め続けている人々の意見だけに説得力がある。…掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。…ものづくりに必要な資源とはまさにこの「美意識」ではないかと僕は最近思いはじめている。…幸いなことに、日本には天然資源がない。…今日、僕たちは、自らの文化が世界に貢献できる点を、感覚資源からあらためて見つめ直してみてはどうだろうか。
→実に深い言葉だ。僕自身も、日本のガラパゴス化を問題視したことがあるのだが、最近は逆に日本の個性をもっと生かしていくことが重要なのではないかと考えている。ガラパゴス化にせよ、ガラパゴス化を反面教師としての最近の動きも、どっちもバランスが悪いのだ。前者は“そと”を見ずに“うち”に引きこもって、後者は“そと”ばかり見て、“うち”を十分見つめない。そのようなことを考えている中での原さんのこの言葉は、自分の中にすっと入ってきた。
・「JAPAN CAR 飽和した世界のためのデザイン」展は、そんな経緯で構想された展覧会の第一弾である。なぜ最初の展覧会が「クルマ」なのかという理由は、一番困難なテーマから始めることが肝要だと思われたからだ。クルマ産業が隆盛している日本では、主要な乗用車メーカーだけで八社あり、いずれも産業という森の生態系の頂点に君臨するオオタカのような企業である。これらの会社が、すんなりと我々の意見を受け入れてくれるとは考えがたいが、もし各社が連携してひとつのメッセージを作ることができたならば、それは画期的なメッセージとなり、世界から大きな興味を引き出せるかもしれない。さらに言えば、そういう規模の構想を実現できれば、あとはどんなものでもできる。そんな風に僕らは考えていた。
→なかなか面白い発想だ。普通はできることから積み上げていこうと考えるが、そういう考え方もできるのだ。しかしそういうことができるのも、本人に金や地位があるからだと思う。また、本人たちの生活に直結していないようなプロジェクトだから可能なのだろう。でも、そういうのって素敵だ。社会に出て生きること、金を稼ぐことに執着しすぎて、発想がちっちゃくならないようにしなきゃ。
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ちょっと筆者の言葉をそのまま抜き出すのはやめた。一つの主張が様々な部位に渡って書かれていて、効率が悪すぎる。次から要約していく。
・移動の未来について考える時に、技術の進歩や素材の革新だけからそれを想像するのはナンセンスで、そこには「こんな風に移動したい」という人間の欲望が働いている。例えばエンジンの発明はガソリンの爆発的燃焼を推進力を生みだす力に変えるという革新的な技術の飛躍が生み出したものだが、スピードというものへの憧れがないと、その欲望を形にするものは生まれなかった。現在のクルマの延長ではなく、未来の人間の欲望に影響力を持つリアルな移動体の可能性をいつかヴィジュアライズしてみたい。
→かっこいい。どの分野でも、新たなものを創造したいと考えている人に、絶対必要な視点だろう。今起きている個々の事象に戸惑わさせられるのではなく、物事の本質、ここでは人間の欲望というものに焦点をあて、その先を読んでいくということ。
・人間は世界を四角くデザインしてきた。四角は非常に不安定なので、自然の中で具体的に発言することが少ない。しかし、例えばバナナのような大きな葉を二つに折れば直線が生まれ、その折れ筋をそろえるようにもう一回折るとその折れ筋は直線になる。その延長線上に死角がある。つまり四角とは、人間にとって手をのばせばそこにある最も身近な最適性能、あるいは幾何学原理だったのだ。円もまた人間が好きな形の一つで、例えば硬い石をドリルのように回転させて、より柔らかい石を切り抜くと、ほぼ完璧な正円の穴を得ることができる。これもまた、回転という運動に即応して人の二本の手が、頭脳による推理や演繹より先に、正円を探り当てていたかもしれない。その四角と円という簡潔な幾何学的形態に基づいて、人間は環境をデザインしてきたのだ。
さて、スポーツ人類学の専門家によると、近代科学の発達と球技の発達は並行して進んできたという。ボールが丸くて、同じ動作に対するボールのリアクションが同じでないと、球技の上達は望めない。このように優れたデザインは人の行為の普遍性を表象している。デザインが人の行為の本質に寄り添っていないと、暮しも文化も熟成していかなかのだ。
→面白い。確かに人間の科学の本質は、“普遍性”を操ることにある。その時まず最初は、人間ができるだけ正確に作りやすい図形を使うのは当然だ。いやぁ面白い。生物を解剖学的に分析しても、四角は存在しない。なのにどうして人間の社会にはこんなに四角が溢れているのだろうか。という問いに答えてくれた内容だった。
・人間の作り出すものはプリミティブから複雑へと向かう。文化は複雑から始まった。現に中国の青銅器、イスラム文化圏の王宮やモスクにある幾何学紋様や唐草紋様、人間の肌に施す入れ墨、インドの建築を埋め尽くす象嵌細工、ヨーロッパのバロックやロココといった様式。世界が「力」によって統治され、「力」がせめぎ合って世界の流動性をつくっていた時代には、文化を象徴する人工物は力の表象として示された。しかし近代社会の到来によって、価値の基準は人が自由に生きることを基本に再編され、国は人々が生き生きと暮らすための仕組みを支えるサービスの一環になった。そして物は「力」の表象である必要がなくなった。単に機能を満たせばよくなった。科学の発達も合理主義的な考え方を助長する。そして次第に、資源や労力を最大限に効率よく運用しようとする姿勢としてシンプルという概念が生まれた。
一方、日本では数百年前にすでに「シンプル」と呼びたくなるような、簡潔な造形が発見できる。簡素を旨とする美意識の系譜は世界でも珍しい。
→確かにそう。すごく不思議。恐らく近代における「シンプル」とは、その合理性における価値が評価されていたのであろうが、日本ではさらにその先のステージ、「シンプルを美しい」とする意識を昔から持っていた。これはどうしてなのだろう?原さんがこの本の最初に書いていた、美意識の話と通じるところがあるのだろうが、日本には資源があまりなく、そのような中でも何かを表現しようとして、生まれた価値観なのではないだろうか。
・日本の家を輸出する。玄関で靴を脱ぐ暮らし方は、身体と環境界面が直に触れ合い、対話する未来型の住環境として大きな可能性を持っていると考えられる。そして家そのものがハイテク家電化したような、先端技術と住まいが合体したような製品なら、日本は優位にその可能性を見いだせるはずだ。床のカーペットに様々な先端技術を駆使し、そこで血圧、脈拍、体重、体温など様々な身体情報を感知できるかもしれない。すると人々の身体は家を介して病院とつながり、常に医療サービスにケアされるということも可能である。
→面白すぎる!!これに似たようなことは、間違いなくこれから起こってくる。
・アメリカの国立公園は情報のデザインが秩序だっていて、商業主義やノスタルジーときっぱりと一線を画して美しい。これは偉大なグラフィックデザイナー、マッシモ・ヴィネリの先見的な仕事が下地になっている。彼は国立公園のパブリケーション・デザインの基礎を整備した。具体的には、地図の読みやすさや美しさ、写真や文字のレイアウトなどを整理し、パンフレットなどの広報ツールを知的で統一のとれた作法へと導いたのである。国立公園を訪れ利用する人々が欲しがる情報、あるいはそういう人々が能動的に国立公園を動くために必要な情報というものがある。彼はその情報編集のための、美しく実用性のある仕組みを立ち上げた。そしてさらに重要なのは、国立公園の情報デザインを一人のデザイナーが占有統括するのではなく、個々の公園を運営管理する人たちが、進んでこの方式を学び習得できる仕組みを作り上げたのである。
デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。国立公園が互いに広報を競い合い、脈絡のないロゴや過剰なヴィジュアルを氾濫させてはならない。本当に機能している情報は、機能している時には見えなくなる。そうしないと、情報がノイズになってコミュニケーションの品質をそぐ。
→素晴らしい。一つの鋳型を作って、仲間で共有していくことはすごく重要だ。そして後半部分もまさにそう。今の世の中は情報が氾濫していて、何が何だかわからない。例えば美味しい料理店を探そうとしても、情報が多すぎて手にあまる。どれが美味しいのかわからない。まず、どれが信頼できる情報なのか、見極めるところからスタートだ。どこか病院にかかるにしてもそうだ。色々サイトができている。だから、まずどのサイトが一番信頼に足るのか調べるところからスタートしなければいけない。
・人間の創造性を飛躍させる媒質というものがある。例えば石器時代における「石」。石の「硬さ」や「重さ」、「程良い加工適性」は、ものを破壊したり切断したりする意欲を人間にもたらし、道具を使用する充足感を目覚めさせていったはずだ。さらに言えば、石器を作るという行為は、ただ作るのではなく、よりよく作る、より美しく作るという意識をすら目覚めさせたかもしれない。紙もまた同様である。その魅力は単に印刷できる枚葉性に集約されるものではんく、紙の触発力は、第一にはその「白さ」においてであり、さらにはその「張り」においてである。そのような紙の触発力によって、言葉や図を記し、活字を編んでいく能動性が、人間の感覚のうちにもたらされた。このような、人間の創造意欲を喚起する物質を、「センスウェア」と呼んでいる。
→非常に面白かった。人間が今まで発明してきた数々のものの中でも、人間の創造性という観点から眺めると上記のような考察が得られるのだ。
・ファッションとは何だろうか。人間は偏りをもって生まれ、歪みも癖も持ち合わせて生きているが、そういうものを全部飲みこんで、どっかりと開き直って生きている人々には、時代を経たタイ僕のような迫力が備わってくる。シミを取ったり、まぶたを二重にしたり、アゴの線を整えたりするのではとうてい太刀打ちできない、人間として強烈なオーラを発している。そして、そういう人は、才能ある服飾デザイナーが全身全霊を投じて創作したオートクチュールのパワーを見事に一身に引き受けて服を着こなしている。着られるものなら着てみろと言わんばかりの、斬新で独創的な服飾デザイナーの挑戦を、真正面から受けとめ、自身の進退と人的オーラでそれを増幅し、あたりに発散している。そういう雑誌を見るほどに、ファッションとは人生の芸術だという思いがつのり、おしゃれであるようりも存在感のある人になりたいと思うようになる。
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非常に面白い本だった。デザイナーという観点から、僕の全く知らない世界のことを語ってくれたり、僕とも共通した世界を全然違った風に捉えて語ってくれる。それが面白い。様々な分野、事象にまたがった面白い考察をしながらも、その根底にあるものはぶれない。そういう本、人ってすごく素敵だなぁと思う本だった。最近読んだ本の中でも、相当レベルが高くて、面白いものだった。