(30)

《もし生き延びることができたら、

命を取り留めたらどうだろう。

それは何という無限だろう。

 

その無限の時間がすっかり自分のものになる。

そうなったら、一分一分をまる百年のように大事にして、

何一つ失わないようにする。

どんなものだって無駄に費やしやしないだろう》と。

 

これはそのほんの一部です。

まだほかにもこういうのがあります。

 

《何かで読んだことがあった。

ある死刑囚が、死の一時間前に、

どこか高い絶壁の上で、

しかも二本の足を置くのがやっとのような狭い場所で、

生きなければならないとしたらどうだろう、

 

と語ったか考えたかしたという話だ、

―まわりは深淵、大洋、永遠の闇、

永遠の孤独、そして永遠の嵐、

―そしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、

生涯を送る、いや千年も万年も、

永遠に立ち続けていなければならないとしたら、

―それでもいま死ぬよりは、

そうして生きている方がましだ!

生きていられさえすれば、

生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい》

 

生きるということは、

お手紙の中で書かれていたように、

毎日、同じことの繰り返しで、

獄舎に繋がれた者のように、

何年も同じ一日が廻ってくると思えることがあります。

 

しかし、それも実際の囚人の生活とは

少し違うかもしれません。

なぜなら、そこには自由と希望の扉が

いつも開かれているのですから。

ほんとの囚人には、その扉すらありません。

 

生きるということは、

単に死を待つだけではなく、

そこから別の場所へ移ろうとする

希望と自由の出立点であり、

それを獲得するための模索と闘いの連続のようなものでしょうか。

 

翻って、囚人、特に死刑囚も、

生きる一つの姿だとしてとらえるなら、

「われらみな死刑囚」と言われる言葉が、

もっと深く重層的に、含みのある言葉として響いてきます。

 

別の、ある作家、

こちらは、「異邦人」を書いたカミュですが、

こう書いています。

 

《独房の中で追憶に耽ることを覚えてからは、

かつての自分の部屋の中のものを、

どんな細かなものでも一つ一つ思い出し、

数週間経つと

自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、

何時間も過ごすことができた。

 

無視していたり、忘れてしまっていたりしたものを、

後から記憶から引き出してきた。

 

たった一日だけしか生活しなかった人間でも、

優に百年は刑務所で生きて行かれる。

 

なぜなら退屈しないで済むだけ

たっぷり思い出を蓄えているから》と。

 

これを読んだ時、私は、

小説を書くことの暗喩かとも思いました。

 

人生は、確かに監獄の中にいるようなものかもしれません。

けれど、その中にいて、

「小説」を紡ぐことができる。

言い換えれば、自由と希望を求めて生きていける。

 

われらはみな死刑囚だとしても、

絶えず自由を求め、

希望という名の想像の翼を広げ、

いつでも飛び立とうとしているのではないでしょうか。