「諦めるんですか?。もう少し、待っても・・・。」
マスターが、少し寂しげに声を発した。
アサミは、涙を拭いながらコクリとうなずいた。そして、マスターを見上げた。
「零と私の、物語が終わっただけ。」
寂しく響く、アサミの声であった。
ほんの束の間、静寂が店内を支配した。アサミは、マスターを見つめたままでいる。マスターもまた、アサミを見つめていた。
するとまるでこの静寂を嫌がったかのようにマスターは、棚から一本の酒瓶を取りだした。そして、ロックグラスにその中身を注ぎだした。氷が、静かに鳴いている。
琥珀色の液体を、半分ほど注ぐとそれを、アサミの前に差し出した。そして瓶を、そっとその傍らに置いた。
『BOOKER'S』
それは、バーボン・ウイスキーの瓶である。
「これって?。」
「懐かしいでしょう。零君が、いつも飲んでたやつです。」
”そうだ。思い出した。”アサミは、いつもこれを飲んでいた零を、思い出していた。
「その一杯が無くなるまで、・・・。」
マスターがそう言うと、自分用のグラスにも注ぎ始めた。
アサミは、軽く液体を口に含んだ。とたんに、眉をひそめた。
当然である。それは、アルコール度数60度の酒である。さすがのアサミも、手こずる度数だ。
アサミは、眉をひそめた後、なんだか遠くを見るかのような表情をした。
思い出しているのだろう、これを飲んでいた零の事を。
「私の話を、してもいいですか?。」
マスターが、酒を一口グイッとやりながら、話し出した。べつだん、アサミの返事を待っている風でもない。
「実は、今日でお店、閉めようと思ってるんですよ。」
突然の、内容であった。驚きの表情を作る、アサミであった。そんなアサミを見てマスターは、優しく微笑んでみせた。
「私も10年の約束に、のっかってたんです。」
マスターは、そっと視線を外へと向けた。
「本当はあの日、店じまいしようとしてたんです。でも二人は、約束の場所にここを選んだ。」
残りの液体を、一気に流し込むマスター。
アサミは、何を言っていいのかわからないでいた。
「だから、絶対にこの日まで、店じまいしないと誓いました。」
ニコリと笑ってみせるマスターであった。そして「ロマンチスト、ですから。」と、付け加えた。
「ごめんなさい。知らなかった。マスターまで、巻き込んでたんだね。でも、どうして・・・。」
「アサミちゃんが生まれた年に、この店を始めたんですよ。これも、何かの縁ですかね。私も、良い夢みせてもらいました。」
アサミは、驚いていた。確かに勝手にここを、約束の場所に選んでいた。ここが、無くなるなんて想像もしてなかった。
確かにあの時、”10年、店じまい出来なくなりましたね”と、マスターは言っていた。
またアサミの眼から、涙がこぼれ落ち始めた。
「泣かないでくだっさい。私の事で。私が、勝手に付き合ってただけですから。」
マスターが、寂しそうに店のドアへと視線を送った。寂しげに。
「これで、彼が帰ってくれば、良かったんですけど。」
「零は、一足早くこの物語を、終わらしてたみたいだね。」
アサミが、涙を拭きながら言った。
マスターが新しく液体を注ぎ込んだグラスを、アサミの前に差し出した。乾杯のポーズをとっている。
「10年間、本当に有り難うございました。楽しかったですよ。」
「本当にありがとう。付き合ってくれて。」
グラスとグラスが当たる音が、店内に響く。
「マスター。これから、どうするの?。」
グラスの中身を、チビチビやりながら、アサミが聞いた。
もう泣いては、いなかった。
「残りの人生、のんびり生きます。」
ここでマスターから、笑顔が出た。幸せそうな、笑顔であった。自然とアサミも、笑顔になっている。
「最後に、辛い思い出になっちゃったけど、これからも楽しく生きよう。二人とも。」
アサミは、残っていた液体を一気に飲み干した。
「今まで美味しいカクテル、本当に有り難うございました。そして、ご馳走様。」
そう言って、何かを断ち切るかのように立ち上がった。そのまま、財布と格闘を始める。
もう、表面的には、いつものアサミに戻っている。
しかしその心の中は、・・・。マスターは、考えていた。10年の年月の物語。
いったいどれだけの時間をかければ、癒されるのか。
それはきっと、誰にも解らないのであろう。本人にも。
忘れるなど、出来ないのかもしれない。10年の、約束の物語。
でもアサミは、新しい物語へと歩き出すのだろう。
マスターは、そう願うしかなかった。
突然、ドアが開いた。アサミの、後ろで。
「あっ。すいません。もう、閉店なんですよ。」
マスターが、ドアの方へと視線を送りながらいった。
アサミは、まだ格闘中である。
涼しい風が、店内へとながれてきた。風は、アサミのもとにも届いた。
何か、心地良いかぜであった。
その風を感じながらアサミは、お金をカウンターの上に置くと、決意にも似た表情でドアへと体を向けた。
新しい、物語を探すために。
マスターは、誰も居ない店内でひとり、ウィスキーを飲んでいた。
その表情は、清々しかった。
30年間の、思い出に浸ってるかのようであった。
「物語ですか。そうですね。人々は、自分の物語の中で、生きている。確かに、そうですね。」
そう呟くと、残っていた琥珀色の液体を一気に喉へと、流しこんだ。
空になったグラスを、見つめるマスター。
「でも、物語は、ハッピーエンドが一番です。」
外へと視線を移す、マスターであった。
午前二時。人通りも無くなった通りが何故か、清々しく見えているマスターであった。