マスターが、クスリと笑った。どこか、寂しげに。
あさみは、そんなマスターの表情を見逃さなかった。口を開けようとしたとき、「でも、物語は、ハッピーエンドが一番ですね。」と、マスターの言葉に、さえぎられてしまった。
気をそがれてしまったあさみは、疑問をいったん飲み込んだ。
マスターはもう、いつもの優しい表情に戻っていた。
「マスターって、ロマンチストでよね。」
あさみは、カウンターに両肘を付いて、手の甲に顎を乗せて悪戯っぽく笑った。
「何歳になっても男は、少年のままですから。」
どこか得意気な、マスターの声。
「少年て言えば聞こえは良いけど、永遠の子供でしょ。」
「はい。」
マスターの、潔い返事が返ってきた。アサミは思わず、笑ってしまった。
それを見たマスターも、子供のような表情で笑ってみせた。
ふとあさみが、目の前のグラスへと、視線を落とした。
「零もそうなのかな。だから、あんな馬鹿げた夢に向かって、突っ走れたのかな。」
ため息混じりの、声であった。
「馬鹿げてますかね。」
マスターの、どこか寂しげな返事であった。
「私は、彼がうらやましかったんですよ。端から見れば、確かに馬鹿げているかもしれません。でも、男が脇目も振らずに突き進んだ、夢。そして、それを実行できる若さ。」
あさみは、黙って聞いている。
「若さ故って、人は言うかもしれません。でも、若い時にしか出来ない事の方が、多いんですね。だからこそ、いくらでもやり直しが出来る若いうちに、夢を追いかけた方がいい。立ち止まって、しまうまで。後ろを、振り返ってしまう時まで。」
マスターが、土砂降りの外へと、視線を移した。遠くを、見るように。
あさみは、そっとマスターを見上げた。
”マスターは、いったいどんな夢をこの街で見ていたんだろう。今の言い方だと、きっと諦めてしまった、夢。”
あさみは、何かを言いかけて、それを飲み込んだ。どんな夢だったのか聞こうとしたのであった。野暮な事は、止めようと思ったのである。人には、触れられたくない思いでもあるのだから。
アサミは、グラスをグイッとやって、差し出した。
マスターはそれを受け取り、仕事に取りかかった。
あさみは、ぼんやりとこの10年を振り返りだした。
短かったような、長かったような。零のいなかった、10年。いろんな人と知り合った、10年。
零に、行って来いと言ってから、本当に10年経ってしまった。
仲のよかった友人は、皆、結婚してしまった。店に勤めだした時の女の子達も、みんな自分の物語を見つけて、去っていった。居なくなるたびに、嬉しさ半分。寂しさ、半分。
自分で選んだ物語なのに、寂しくてたまらなくなる事があった。
寂しくて、押しつぶされそうになって、誰でもいいからこの心をうめてと、男の胸に飛び込みそうになったこともある。
そのたびに、零の顔がうかんだ。そして、約束だけを糧に、今まで過ごしてきた。
そして今日、待ち続ける物語も、終わりをつげる。それが、どんな結末であっても。
あさみは、時計に目をやった。
9時30分。
胸が、高鳴り始めた。期待と、不安で。