二人が出会った頃、いつも零がアサミを呼び出して、零一人が話しまくっていた。そして不思議とアサミは、いつも零の話に付き合っていた。
最初の頃は、酒をおごってくれるからであったが。しかし、いつしか・・・。
「そんな零が、好きになった。」
アサミがゆっくりと、視線を零へと向けた。
零は、少し驚いた。アサミの表情に何か、決意の様な色があった。
「そうだよね。そんな零を、好きになっちゃったんだもんね。」
ニコリとアサミが、笑った。同時に、大粒の涙が流れ落ちる。
「行って来い。零の、夢の場所に。」
とめどなく落ちる、涙。
「アサミの分まで、感じてこい。」
零が、なんともいえない表情になった。
嬉しいのか、それとも苦痛なのか。零は、複雑な気持ちになっていた。
今までずっと一緒にいたアサミを、おいていく後ろめたさと、夢に向かうための最後の足枷が無くなった嬉しさが、入り交じっていた。
そう、夢に向かって走り出し準備が、整ったのである。
そしてアサミの気持ちは、もっと複雑であった。
行くなと、叫びたかった。今すぐ抱きついて、アサミを一人にしないでといいたかった。
言えなかった。
惚れた男に、夢を諦めろと言えるはずもなかった。
すぐそこに有る、夢。
「そして、10年後の今日、ここに帰ってきて。」
アサミの顔は、涙でぐずぐずになっている
「そして、アサミの30才の誕生日をお祝いして。おばちゃんになった、アサミを笑いに来て。」
涙を拭こうともせずにアサミは、零の顔をジッと見つめていた。その顔を、脳裏に焼き付けるかのように。
そして、言えるはずもない言葉が、喉まで出てきてしまう。アサミは、必死にこらえた。
言ってしまったら、きっと歯止めがきかなくなる。
「アサミは、必ず来る。この椅子で、お祝いしてもらうために。零の、10年間のバカ話を聞くために。」
アサミが涙を拭きながら、立ち上がった。そして、手を差し出した。
握手の為に。別れの為に。
「10時に、待ってるね。」
これ以上言葉は、出てこなかった。必要無かったのかもしれない。
零は、静かに立ち上がりアサミを、ジッと見つめた。そして、力強くその手を握った。
暖かく、大きな手であった。
”零ってこんなに格好良かったんだ。キラキラしちゃって。”
今まで見たことのない零が、そこにいた。瞳が、輝いている。
ふと、そんな零が、誇らしく思えた。
「10年後に、必ず来る。アサミの、三十路を祝に。そして、一晩中語る。出会った、人々の事を。」
もう言葉は、いらなかった。二人は、互いに微笑んでみせた。そしてそれが、合図でもあった。
「行って来ます。アサミ。」
「行ってらっしゃい。零。」
零は、もう一度アサミの手を、力強く握った。そして、これ以上無いほどの笑顔をアサミにみせると、大きく一つうなずいてみせた。
それは、夢に向かう決意の姿であった。
そして零は、一度も振り返る事無く、雨の降る街へと出ていってしまった。アサミは、ただただその背中を見つめている。
その姿が、見えなくなっても。
「10年、店を辞められなくなりましたね。」
アサミが、ビックリして振り返った。そこには、優しい笑顔でマスターが立っていた。
アサミは、すっかり存在を忘れていた。
椅子に腰を下ろしながら、少し寂しげに笑ってみせる。
「バカな女だと、思ってるでしょ?」
静かなアサミの、問いかけであった。