日本文明はギリシャ文明の影響を受けた

ことしは「日本・ギリシャ文化観光年」で、

来月で両国の外交関係樹立から125年となるので

佳子さまは首都アテネで記念の式典などに臨席した

 

しかし、日本とギリシャにはもっと古くから深いつながりがある

アレクサンドロス大王は、前334年に東方遠征を

開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして

東西に及ぶ大帝国を建設した

 

征服した各地にアレクサンドリアを建設して、

ギリシア人を入植させ、中東諸国をヘレニズム世界とした

しかし前323年に、32歳と言う若さでバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された

 

その後、中央アジアからインダス川上流を越えて

インドに入ろうとした彼の計画は、多くの部将の

反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かった。

前323年、バビロンで熱病にかかり32歳余で

死んだ

その死後は彼の帝国はマケドニア人によって

分割支配された

 

彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、

ギリシャ文明とオリエント文明を融合させ、

ヘレニズムという新たな文明の出現をもたらした

 

アレクサンドロス大王は前334年から前323年まで、ギリシャの東方、アケメネス朝ペルシアの

支配する広大な地域への大遠征を行った

征服地には各地に植民市アレクサンドリアを建設し、ギリシャ人を入植させた

 

図は、アレクサンドロスがギリシャを出発し

エジプトからインド西端まで攻め上った経路である

 

集団結婚式

前324年、アレクサンドロス大王はペルシア帝国の旧都スーサにおいて集団結婚式を挙げた

大王自らがアケメネス王家の二人の娘を娶り、

約80人の側近たちにペルシア人、メディア人貴族の女性を与え、さらに約1万人に及ぶ兵士たちに

アジア人女性との結婚を認めて祝い金を与えた

従って、中東、インド、アジアを通じて日本人の

一部の遺伝子にはギリシャ人の遺伝子が流れ込んでいる

 

アレクサンドロスが征服した地域は

ギリシャ、アラビア半島を除く中東地域、エジプト

中央アジア、北インドの一部に及ぶ

 

つまりエジプトから中央アジアまでを征服し、

中央アジアをギリシャ化・ユダヤ化し、一方、

インドから仏教をヨーロッパに伝えた

 

この300年後に、イエスが、服従しない国々は

皆殺しにしたユダヤ教に、隣人愛を重視した仏教の

思想を取り入れ、ユダヤ教の宗教改革を行った

キリスト教は仏教思想による、ユダヤ教の

改革であったと私は信じる

 

キリスト教は、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わり、唐代の中国においては景教と

呼ばれた

 

一方日本では、6~7世紀に活躍した聖徳太子が

定めた十七条の憲法はキリスト教が強調した

隣人愛を重視し、私見ではキリスト教の影響が

強くあったと思う

 

また聖徳太子を厩戸王(うまやどの王)と呼ぶが

イエスキリストが馬小屋で生まれたとする伝承と

無関係とは思えない

聖徳太子が日本人であるか中国人であるかも

確定できないが、太子は、中国に伝わったキリスト教の影響を強く受けていたと私は信じる

 

長くなったので結論を急ぐ

以下、私見を交えて要約する

1.紀元前300年ごろギリシャの

アレクサンドロス大王はエジプトから

インド西端に及ぶ大帝国を築き、

仏教は西欧に伝わりユダヤ教はインド西端まで伝わった

2.その結果、キリスト教は仏教の影響を受けて

隣人愛に基づく宗教改革を成し遂げた

3.聖徳太子はキリスト教に基づいて

十七条の憲法を定めた

4.要するに、キリスト教は仏教の影響を受け、

仏教はキリスト教の影響を受けた

5.日本の仏教はキリスト教の影響を受けていて、

日本文明はギリシャや西欧文明の

影響を受けている

以上