徳川慶喜から皇位継承を考える

皇室典範はおかしい

こうなっている

 

第一章 皇位継承

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、

これを継承する。

第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。

一 皇長子

二 皇長孫

後略

 

ところが徳川将軍家ではそんな杓子定規なやり方で将軍を決めなかった

だから15代まで続いたのだ

 

徳川慶喜が最後の15代将軍になった経緯を

概観する

天保8年(1837年)9月29日、後の德川慶喜は

水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生

 

御三家(ごさんけ)とは、徳川家康の男子のうち

義直(尾張)、頼宣(紀伊)、頼房(常陸、水戸)の家系が将軍家に次ぐ家格として格別に扱われた

水戸藩は御三家だが慶喜はその七男で、将軍候補のはるか圏外である

 

そこで、老中・阿部正弘が「昭致(あきむね=慶喜)を御三卿*・一橋家の世嗣としたい」との

12代将軍・徳川家慶(いえよし)の意向を水戸藩へ伝達

昭致は9月1日に一橋徳川家を相続

 

*御三卿(ごさんきょう)は御三家

(家康の子ども)に跡継ぎがない場合に養子を出す

田安徳川家(田安家)

一橋徳川家(一橋家)

清水徳川家(清水家)

 

12月1日に元服し、徳川慶喜と名乗る

つまり老中の計らいで将軍候補となった

その理由は慶喜が人並み外れて英明な上に豪傑と

呼ぶべき胆力を備えていたからだ

 

1853年、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が

病死し、その跡を継いだ徳川家定は病弱で男子を

儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する

 

慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、

紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼や大奥の南紀派が対立した

 

ここでも、慶喜が将軍になることは既定のことではなく猛反対があった

 

文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、7月6日、慶喜を

将軍後見職に任命

強力な権限を持った大名島津が慶喜を後押しした

 

慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる

実は慶喜は攘夷など不可能なことを知っていたが

攘夷派を黙らせるために一芝居打った

 

文久4年(1864年)2月16日、慶喜は、中川宮らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた春嶽、

久光、伊達宗城を、「三人は天下の大愚物・

大奸物である」などと罵倒、横浜鎖港の朝議を

確かなものにしようとした

これによって攘夷派を黙らせた

 

家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は、江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した

 

猛烈な反対勢力のある中で、家柄が良いわけでも

ないのに水戸の七男がいつのまにか将軍候補に

躍り上がって来た

 

繰り返すが長男が天皇を継承するなどと言う

形式主義はおかしい

大正天皇は極めて病弱であったが天皇になり

精神不安定と言われた

 

悠仁親王も皇室典範に従えば皇位継承資格があるが発達障がいの疑いが濃いと言う説がある

型式的な皇位継承は決してするべきではない

そのためにも皇室典範の改正を急ぎ女性天皇に道を開くべきである