村山富市の器

1994年6月30日 - 1996年1月11日

内閣総理大臣

 

岸田と言うのはよくよく器が小さいが

村山の器は大きい

 

1994年、今から30年前、 羽田内閣が総辞職し、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した

 

しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は

海部俊樹を統一候補に指名した

 

6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で

過半数に達せず、決選投票となった

その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、

自社さ連立政権内閣が発足した

 

ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの

社会党首班内閣誕生となった

また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に民主党の菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない

唯一の内閣総理大臣であった

 

戦後政界では内閣総理大臣の座を争って幾度も激しい政争が繰り広げられて来た中で、村山は、自らの意思に反して周囲の推挙によって総理に就いた稀有な存在だった

 

村山自身「総理大臣になろうと思ったこともなければ、なれると思ったこともなかったし日本中誰一人僕が総理になると思った人はいない

だが首班指名選挙で選ばれれば、

私はできませんと言う訳にはいかないから首相官邸に単身赴任で連れて行かれたようなもの」と述懐している

 

実際、非自民連立政権の羽田政権が頓挫したことで、自民党を含む多くの有力議員から首相就任を説得された時も「どこの国の話じゃ」

と言って固辞し続け、首班指名選挙で自民党が自分への投票で話をまとめたことを知らされておらず、水面下で自社さ政権成立に奔走した側近の野坂浩賢に「わしが当選したらどうするんじゃ」と言った

 

自らの人生を「めぐり合わせの人生」と語った欲の無い性格で大分市議会議員から県議会議員、衆議院議員、社会党委員長を経て内閣総理大臣を務めたのも「全ては自分の意思ではない

たまたまと偶然、めぐり合わせの連続で

周りから背中を押されてやらされてきた

だが総理になった以上は一生懸命やる以外に

ないと腹をくくった」と語る

 

社会党委員長と首相に就任した時「なんで

わしがこの席に座ることになったんじゃろ」と言った

 

首相在任中は亀井静香や野中広務など自民党内でも武闘派と称された議員から熱烈に支持され、亀井、野中は後年も村山を最高の首相だったと褒めちぎっている

 

庶民派宰相と呼ばれ政界引退後も生活ぶりは

質素で慎ましく、大分市内を移動する時は

自転車を使っていた

 

「大衆とともに大衆と学ぶ」という村山の政治哲学は、社会党委員長の先輩でもある浅沼稲次郎の生き方から学んだ教訓と言い、社会党に骨を埋める決意をしたのは、浅沼との出会い、

偉大な存在として極めて深い尊敬の念を

抱いている

「憲法9条を護ることが、浅沼の精神が生き続けている証拠」と語った

 

石原慎太郎は、1994年6月の自社さ政権成立直前には「村山さんで行こうよ」と発言

村山事務所を訪ね首相就任を受けるよう要請した石原に対し、村山は「人違いじゃないのか」と一蹴した

 

非自民連立政権の羽田内閣が頓挫して政局が

混迷する中、自民党総裁だった河野洋平は首相就任を固辞する村山に「今、国を救うことができるのは、あなたを首班指名するしかない。私どもは腹をくくった」と涙ながらに村山を説得し、村山も感動したというが「長年反目してきた社会党と自民党が手を結ぶと言う。これは

大変なことになった」と首相就任前の

胸の内を明かす

 

「連立政権のパートナーである河野洋平、新党

さきがけ代表・武村正義との三党党首間の

信頼関係が強固だったので、政権を円滑に運営できた」と述べた

 

要するに、なぜ自民党と社会党が連携できたかと言うと、自民党幹部の村山の人格と実行力

に対する信頼が厚かったからである

その後の菅直人らの野党内閣とは全然異なり

村山富市の器の大きさが自民党との連携を

堅固にしていたと思う