日本刀のディスプレイ方法についていろいろ考えていた時、ふと、実家の物置に
五月人形の甲冑が眠っていることを思い出しました。
物置をガサガサ漁ってみたら発見!
いい感じに飾れそうです。
しかし、40年以上前の五月人形がほとんど痛みもなく見つかったのは奇跡です。
捨てられたかと思っていました。
先日手に入れた日本刀。
お世話になっている刀剣店で見てもらったら、江戸時代の拵えと判明。
「柄糸に合わせて下緒をコーディネートしたほうがいいですよ。」とアドバイス
をもらったので、ちょっと変更してみました。
今までなかった小柄も調達。秋草と鈴虫です。
柄頭や鍔と合わせてみました。
いい感じです。
柄頭も色落ちしてしまっていたので…
ジョイ本で買った、黒化液で染め直しました。
黒い部分が決まっているとびしっと絞まって見えます。車のタイヤや、樹脂パーツ
と同じイメージですね。
また、お金を貯めて次なる日本刀を購入したいと思います。
しかしこの拵え、過去の落札履歴を調べると鍔だけで2万円していました。
良い買い物しました![]()
最近、改めて日本刀に興味を持ち、狭山市立博物館で地元の銘を切った脇差を初めて
見て、本当に感激しました。
日本刀繋がりで、歴史についてちょっと学びたくなり、市内にいたと言う柏原鍛冶集団
について色々と調べてみることに・・・
柏原鍛冶は、柏原(狭山市)を拠点に、飯能・入間・狭山市にかけての入間川左岸一帯
の加治郷に散在した鍛冶集団。
柏原増田家の初代・増田大水正金は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)
の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に
亡くなっています。
槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられ、その後は
荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
この鎗は、応永32年(1425)に没した柏原の鎗鍛冶師の増田大水正金が
作ったものです。
全長67.8センチメートル、穂先の長さは23.5センチメートルあり、茎には
「武州柏原住大水作」と銘が刻まれています。
下の脇差にも「柏原」の銘が・・・
重ねは厚く、戦国時代ならではの立派な刀でした。
槍や刀を作る砂鉄は入間川から産出したものを使いました。以前、砂金取りで
入間川に行ったときに自分も砂鉄がいっぱい採れたので気になっていました。
達筆な写真の説明書きは、加治氏館跡(入間市野田)に居住していた新井家本家
に伝わる文書で、滝山城(八王子市)の城主・北条氏照が、柏原鍛冶の新居(荒井)
新左衛門尉(しんざえもんのじょう)に宛てて出した書状。
(永禄8)年(1565)4月28日付の書状では、北条氏照が新居新左衛門尉に対して、
棟別銭(むなべつせん:家屋の棟数別に賦課される税金)を免除する代わりに、
1年に鑓20丁を上納するよう命じています。
しかし、14年後の天正7年(1579)6月6日付の書状では、鑓の上納は年30丁に増加
しており、さらに「9年間も滞納しているので、滞納分270丁のうち半分の135丁を
今年と来年の11月10日までに納めなさい」と命じています。
滞納してお咎めはなかったのでしょうか・・・
常楽寺
城山砦跡の近くの常楽寺に、増田家のお墓があります。
増田家が柏原に定住したのは応永時代(1394年~1428年)以前のことであり、
その頃のお墓は柏原小学校近くの永代寺にあったといわれています。増田家が常楽寺
を創建して墓地もこちらへ移転したとの伝承があります。
増田正金五百年記念碑
「増田正金五百年記念碑」は、正金の没後500年を記念して大正15年(1926)3月に、
増田家が建てたものです。
柏原には、槍鍛治、刀鍛冶、鋳物師が多く、小田原北条氏の頃は特に活躍したようです。
今でもこの周辺には「増田さん」が多くお住まいです。鋳物師は「神田さん」で、同じく
多い苗字です。
誰が増田正金を呼んだのかは、不明ですが「入間川御所」を鎌倉公方足利基氏が
引き払ってから30年後です。
足利基氏の後継者でこの地方を管理していた人だろうと思われます。
また、もともとの増田家初代増田宗徳という人は甲冑師名鑑各派系図に載っており、
柏原増田家は増田明珍家という有名な甲冑師の家柄だということです。
《旧家者庄兵衛 増田を氏とす。先祖増田正金また大水貴先と号して鍛冶を業とす。
応永三十二年二月没す。
鍛する所の鎗一本その家に伝ふ。身の長さ一尺三寸、忠銘に柏原住人大水と鐫す。
それよりして箕裘を継ぐもの四世、今その名を失へり。》
増田家元祖大水正金伝云、武内宿爾後胤大沢大膳太夫正高三男、山田左近将監正国
十一代大和郡山住人而俗名伊新之丞、世業鎗鍛冶、鎗銘日、柏原住人大水正金、
応永三十二年二月廿三日逝去、大正十五年三月為満五百年記念建設
板石塔婆
埼玉県内のものの多くは秩父地域で切り出された緑泥片岩(りょくでいへんがん)
を加工してつくられたもので、鎌倉時代から戦国時代にかけての中世に、死者への
供養や自らの極楽往生を願って全国各地で作られた供養塔です。
随所で歴史を感じます。
この七観音は天保15年(1844)に、ここ柏原村の斎日講中が建てたものです。
斎日とは毎月8・14・15・23・29・30の6日間(六斎日)を指し、この日は仏教上
の八斎戒を守って身を慎む精進日です。
また鉦や太鼓をたたいて名号を唱えたので、これを「六斎念仏」とも言います。
七観音は市内に2基あり、一石に7体の観音様が刻まれているのは珍しくここだけです。
増田家の屋敷内には鍛冶師が崇拝した金山神社が祀られ、そこには永享元年
(1429)銘の十一面観世音菩薩を鋳出した御正体があります。
金山神社は、上奥富と入間市野田にもあり、鍛冶集団が崇拝した神社である事から
間違いなくこの地にいたことが良くわかりました。
こうやって歴史を勉強するのも楽しいものですね。
先日入手した日本刀の拵え。
江戸時代の物らしく、経年劣化で柄糸がボロボロと解れてきました・・・💦
柄糸を巻いてくれるところを探しますが、みんな8ミリか10ミリの柄糸しか対応
してくれません。柄糸の幅は6ミリ。
仕方がないので福岡県飯塚市にあるお店から、正絹の柄糸6ミリを仕入れて自分で
巻くことにチャレンジ![]()
手先の器用さには自信がある方ですが、これは難易度高し![]()
こう言う所からも日本刀の完成度って素晴らしいな~と感じながら巻き直し。
菱の大きさを揃えるのが大変![]()
作業中、なぜか頭の中には大好きな時代劇、子連れ狼のテーマソングが流れます・・・![]()
何とか完成です![]()
この日本刀を入手して自分で挑戦した事。
① 刀身の錆び取り(研ぎ直し)
② 下げ緒の取り換え
③ 柄糸の巻き直し
④ 鞘の補修
⑤ 鍔鳴りと柄前の鳴り止め
拵えは分解時に墨で色々と書かれた和紙が挟まっていて、美濃彫り、象嵌など
の特徴から江戸時代の物と確信。後で、刀剣店に詳しく見てもらおうと思います。
刀身は日本刀ではある物の、後からこの拵えに合うものを入れたと推測。
鍔も刀身に合っていないので、カチャカチャ鳴るので責金が必要な状態でした。
錆びだらけで、峰は削られ、地肌部分はリューターと思わしきものでガリガリ
削られていました。
研ぎ師にお願いする状態ではなかったので、自分で研ぎ直し。
自分で苦労して手直しした分、愛着がわきました。
縁金と柄頭の象嵌はよく見ると兜でした。
5月生まれの自分には嬉しい装飾。手放せませんね。
柄糸は何度も巻くことで上手になりそうです。
目貫は牛の象嵌。手の込んだ装飾でした。
柄巻き師、研ぎ師、塗師、金工師、白銀師、刀鍛冶・・・
多くの人の魂がこもったのが日本刀だと言う事が本当によくわかります。
芸術の結晶ですよね。
すっかりハマってしまいました・・・
日本を代表する美術品、日本刀。
その魅力は世界にも認められ、最近は刀剣女子も増えているとか・・・
自分もここ最近、博物館などで目にすることが増えました。
ついに刀剣専門店へ足を運び親切に色々と教えてもらったら、以前にも増して興味が出ました。
刀、脇差、短刀、懐刀、稚児差し・・・色々な種類がありますが、小さいサイズで
鎬造りの脇差拵えが好みと言う方向性が見えてきたので短刀を買いました。
武器としてではなく、美術品、お守りとして・・・。
江戸時代を代表する、美濃彫りが美しい拵えです。
目貫は水牛でしょうか・・・
これは兜?
赤銅魚々子地(しゃくどうななこ)
彫金の技法の一つ。
赤銅地金の上に鏨(たがね)で魚の卵のような丸い小さな文様を一面につけたもの。
赤銅魚子地に秋草、秋虫の象嵌が施された鍔。
実に見事です。カマキリや鈴虫が見えるのは美濃彫りの特徴です。
刀身はおまけ程度に考えていました。ひどい錆びです。
でも、拵えだけでも十分安い価格だったので不満はないです。
しかしひどい・・・
よっしゃ!いっちょやるか!
下地研ぎまで進みました。
見違えるようになってきた。横手の筋を出すのは気を使います。
根気がいるなぁ~・・・
登録も忘れないようにしなきゃ・・・
明日は郵便局に直行だ。
サイズ的にも自分の好みです。