歴史を検証し学ぶ事の意義(その2)

○二度の世界大戦て激しく戦った独仏両国の和解

ドイツとフランスは第1次、第2次、2度の世界大戦で激しく戦ったが、今、とても良好な友好関係を保っています。その背景には、ドイツが、とりわけ、ナチス時代の歴史について、長年にわたって真摯に、かつ丁寧に向き合ってきた事実があります。
2013年に来日されたフランソワ・オランド仏大統領(当時)も、日本の国会で同様の趣旨の言葉を述べておられます。

•ワイツゼッカー元ドイツ大統領の、1985/5/8の演説

「問題は、過去を克服する事ではない。そんな事は出来るわけがない。
後に、過去を変更したり、あるいは起こらなかった事にする事は出来ない。
だが、過去に目を閉ざす者は結局、現在にも盲目となる。
非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、又そうした危険に陥り易いのだ。」

○ポーランド…加害の記憶は残らない

第2次世界大戦が始まった頃、ポーランドの小さな村であるイエドヴァブネには、およそ2400人が住んでいた。そのうちの7割はユダヤ系だ。
東方へと侵攻してきたドイツ軍によって村が占領されて数日後、ほとんどのユダヤ系住民達は教会の納屋などに押し込められて、生きたまま焼き殺された。この惨劇はナチスドイツによるホロコーストの一つとして、戦後ずっと語り継がれてきた。ところが近年、虐殺は多くの非ユダヤ系のポーランド住民達によってなされた事が、生き残った人の証言によって明らかになり、ポーランド社会は大きな衝撃を受けた。
受けた被害については語り易い。でも与えた加害については語り辛い。勿論、心情としては当たり前といえる。被害を語り継ぐことは大切だ。でも被害の記憶だけでは、加害側が残虐で凶悪なモンスターに造形される。それでは連鎖が止まらない。戦争の実相はわからない。
他の多くの町や村でも、住民によるユダヤ人集団虐殺は行われていた事が、最近は明らかになってきた。辛い作業だ。でもポーランドは今も国を挙げて、この調査を進めている。
(2010年8月 朝日新聞記事より)

※過去の歴史を検証する事によって、逆に「新たな対立が生じてしまわないだろうか」「かえって隣国との関係が悪化してしまわないだろうか」というご意見もあるかもしれませんが…ポーランドがかつてのユダヤ人迫害の歴史を検証した事は、その勇気を称えられこそすれ、それによってポーランドとイスラエルの関係は決して悪化はしておりません。

○過去の歴史上の出来事について、現代を生きる我々がその「是非」にまで踏み込んで論評する事は妥当なのか否か…

歴史を検証し学ぶ事の意義…これについて、「過去の歴史上の出来事や人物について、その時その場にいたわけでもない現代の人間がとやかく論評するのは間違っている」というご意見もあるかもしれませんが…成功も失敗も含めて過去の歴史から何を教訓として得るのか、そしてそれを現在〜未来にどの様にいかして(役立てて)いくのか、が大切なのではないでしょうか…私はそう考えます。
さらにもう一歩踏み込んで、過去の歴史上の出来事の「是非」について、現代の我々が論評する事は妥当なのか否か…例えば…

•オリンピックへの女性の参加について

近代五輪の創始者 クーベルタン(仏)は女性のスポーツに不寛容だった。だから第1回五輪アテネ大会(1896年)に女子の姿は無い。クーベルタンだけが石頭だったのではなく、そのような価値観の時代だった…
これについて、21世紀の現代の価値基準をそのまま当てはめて、現代の我々がその「是非」を論評してしまう事が妥当なのか否か…私自身は、正直言って、悩ましいところです。

•1939年、日ソ両軍が激突したノモンハン事件について

昭和史研究の第一人者、故 半藤一利氏の著書「ノモンハンの夏」…負け知らずだった日本陸軍が完膚無きまでに敗れた。それが1939年、ソ連軍と相まみえたノモンハン事件。
ソ連最新鋭の戦車、圧倒的な戦力の差、敵を研究せず、勇ましい事ばかり言っていた高級軍人達、「ただただ敵を甘く見て、攻撃一辺倒の計画を推進し戦火を拡大したのは、いったい誰なのか」、無計画、自己過信、優柔不断、それらは反省される事無く太平洋戦争に引き継がれた。

…半藤一利氏は、その著書の中で厳しく批判しておられました。

•植民地支配と国連ダーバン宣言について

2001年の南アフリカ・ダーバンでの国連「ダーバン宣言」は、「植民地支配はかつて『合法』とみられていたとしても、過去に遡って非難されるべきだ」とした。
旧植民地宗主国の英仏等も合意。

仏のアルジェリア植民地支配 について、2019年12月、マクロン仏大統領は「植民地主義は重大な過ちだった」と発言

英国やドイツ等で植民地支配下での拷問や虐殺に対する謝罪や賠償を求める判決が相次ぎ、イタリアやベルギー等で植民地支配そのものへの謝罪や遺憾の表明が積み重ねられている。

…これについて、難しい側面も併せ持つ問題ではありますが、今後も世界の動き〜潮流を注視していきたい…現時点で私はそう考えております。

(※「植民地支配とダーバン宣言」…2019/9/16、2020/8/6、2021/1/14、朝日新聞、赤旗新聞から引用)

…21世紀の現在(今日)の出来事も、いずれは時の経過と共に「歴史」になります。
中国の「1989年 天安門事件」も「2020年 香港民主化運動弾圧」も…ロシアの「ウクライナ侵略」も…いずれ後世の人達が様々に論評する事になるでしょう。その時、後世の人達が、21世紀の今日の出来事を、過去の歴史として振り返り、「未来への教訓として様々に論じる」だけにとどまらず、「その『是非』にまで踏み込んで論評する」事は妥当か否か、について、私は以下のように考えます。

•中国の「1989年 天安門事件」「2020年 香港民主化運動弾圧」について…世界人権宣言に反する冷酷な仕業として、後世の方達がその「是非」に踏み込んで論評する事は「出来る」と私は考えます。
•ロシアの「ウクライナ侵略」について…「国家の主権と領土保全の尊重」を謳った国連憲章に違反する蛮行であり、これも、後世の方達がその「是非」に踏み込んで論評する事は「出来る」と私は考えます。

○…過去の歴史上の出来事について、現代の我々がその是非にまで踏み込んで論評する事は妥当なのか否か…
「論評出来ない」「論評すべきでない」との一言だけで片付けてしまう事は出来ないのではないでしょうか。逆に、何でもかんでも全て、現代の価値基準を当てはめて「論評出来る」「論評すべき」と断じてしまう事も出来ないのではないでしょうか。
一つ一つの事例毎に、熟慮の上で丁寧に判断していくべきなのではないでしょうか…私はそう考えます。

※添付写真…昭和史研究の第一人者、故 半藤一利氏の著書「昭和史」「ノモンハンの夏」