佐々木俊尚氏の新著「キュレーションの時代」を読み終えた。


「キュレーション」とは、この著者はこの著作中で、「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新しい意味を与え、そして多くの人を共有すること。」と定義している。


また他の章では、もう少しイメージをしやすいように、以下のように説明してくれている。


「情報のノイズの海は、そのままではただ漠然と広がっているだけで、いったいどこに自分にとって良い情報が溜まっているのかはさっぱりわからない。(中略)でもその遠浅の海のあちこちには杭が差しこまれ、その杭の周囲には情報がゆるやかに集まってよどみを作っている。あなたは情報を探す必要はない。どの杭がどういう情報の溜まり場なのかを判断して、それらの杭に近寄っていって、その杭のまわりの水流に手を伸ばせばよいのです。(中略)だれかの視座にチェックインすることによって、私たちは情報のノイズの海から的確に情報を拾い上げることができる。」


続けて数ページ後には、「この『視座』を提供する人々は今、英語圏のウェブの世界では『キュレーター』と呼ばれるようになっています。そしてキュレーターが行う『視座の提供』がキュレーション。」とも表現している。


インターネットの世界の上では、グーグルがそのミッションとして取り組もうとしているように、圧倒的なパワーで情報の整理が進んでいる一方で、ブログや写真・動画共有サイトや様々なウェブ・メディア、さらにソーシャルメディアなどがどんどん情報をアクセス可能なフィールドに投げ込む勢いは、当面は膨張する一方のように見える。


この広大な情報の海の中で、自分にとって必要な情報、有意義な情報にアクセスするのに、これまで多くの場合「検索」という、言ってみれば無機質なツールを利用してきているわけだが、これに対して、キュレーションを活用するということは、誰か、つまり「キュレーター」が彼・彼女の視点、視座によって情報を整理し、あるコンテクストを与えて提供してくれる情報を利用するという、言ってみればある種「有機的」な情報へのアクセスだとも言えるだろう。


「キュレーションの時代」であることには、まったくもって異論はない。ただ、ことさら聞きなれないカタカナ言葉を改めてつきつけられなくても、ネットを利用している多くの人は、自然に行なっている行為であることも間違いないように思う。もちろん、検索やウィキペディアなども同時に使い分けしながら。


本文中で絵画・アートのキュレーションを取り上げているように、キュレーションという行為は、ネットの世界だけのことではなく、けっして・新しいことでもない。著者の佐々木氏自身もが本著作の大半のページをキュレーションとは直接関係の無い、様々な話題を取り込んで、本という形にまとめているのは、まさにボリュームの大きいキュレーションであろう。


インターネットの進化によって、利用者の誰もが、コンテンツ・情報の発信者となると同時に、キュレーターにもなれるし、キュレーションを利用することも普通にやっている。


最後に、佐々木氏の本位であったのかどうかは不明だが、本の帯にある「コンテンツが王だった時代は終わった。いまやキュレーションが王だ」というのは、全然的外れのように思う。コンテンツは今や放っておいても提供されるから王ではないとでも言いたいのだろうか。それらは対比すべきものではないし、キュレーションもコンテンツ一形態なのではないだろうか。キュレーションはどちらかと言うと検索と同じように、情報・コンテンツ利用の手段であって、主役や「王」になるものではないと思うのだ。


そんなにムキになってプッシュしなくても、キュレーションは普通に広がってゆく。