13:59分、俊寛僧都忠誠之碑
背後から見るとただの巨石
京都の街を見下ろすように建てられています
建立は1935年、西垣精之助により建てられた。文字は公爵・一條實孝書。碑文は長尾甲
鹿ケ谷大黒谷にある法勝寺執行俊寛は治承元年(1177)6月、自らの山荘で平氏打倒の密議を行い、その首謀者とされ薩摩國喜界島へ流されたこの碑は俊寛山荘跡を示すもので、その根拠は碑文によれば建碑者・西垣精之助の夢に出た場所であるという
昔から人は権力者の暴虐の限りを尽くすことに憤りを持ち、こいつらを一掃して人民を安心させようと計画したものであった
俊寛碑から桜門の滝への下りはよく滑りました
注意が要ります
その事が成功すれば「義挙」と称えられた。しかし失敗すれば「乱賊」とののしられたのである。だから世に伝える歴史というものはあてにならない
転んだら泥んこになるだけではなく大怪我をします
平清盛は権力をほしいままにして、天皇でさえ自らの好き勝手に即位させ、気に入らないものは退位させた
小股で横向きに下りるのが良いでしょう
俊寛は村上天皇の末裔で、清盛のやることを憎んでいたので、成親らの計画を聞き、いざという時には奈良興福寺の僧兵を率いて味方するという密約を結び、自分の山荘で仲間と計画を練った
耀が靡く
ところが蹶起直前に行綱が清盛に密告し、俊寛は同志とともに硫黄島(喜界島)に流された
手をつき慎重に下ります
他のものは罪を赦されて都に帰ることが出来たのに、俊寛一人が島に残され非業の死を遂げた(35歳だったかな)


















