大阪城から網島にある太閤園へ足を延ばした
邸内にある桜が見頃を迎えていました
ここで会合や宴席、結婚式がよく行われました
太閤園は藤田観光が運営。昭和20年、前身である藤田鉱業が藤田興業株式会社と改称され、昭和30年、藤田興業の観光部門が分離独立して発足しました椿の一種でしょうか?
明治42年、当時の財界の雄であった藤田傳三郎が大川畔に築造した網島御殿に遡る
築邸100年、大正ロマンの漂う贅沢な邸宅と、緑あふれる日本庭園が見所です
式回遊庭園で、日本各地から集められた石や灯籠、塔などから作庭されています
四季折々に美しい表情を見せてくれます
5~6月頃にはホタルを見ることも出来、ホタル観賞のイベントが催されている
隣接して藤田美術館や藤田邸跡公園があり、歴史と文化に触れることが出来ます
旧男爵の邸宅「淀川邸」はじめ、すべての会場から季節感あふれる庭園が眺められます
麗しい白い花
大阪城公園の全景
加藤文太郎は夏山をひととおり踏破した後、昭和3年の暮れに初めて八ヶ岳を征服し、以来冬山の魅力にとりつかれるようになる
近代ビル群の中にあっても威風堂々としている
独自の訓練と装備によってつぎつぎと難コースに挑み、自信を深めてゆくが、その間彼自身、山での人付き合いが下手であることに気づき単独行に徹底することを決心した
桜の分布もよく分かる
昭和5年、大晦日から6年の正月にかけて決行した、富山県から長野県に抜ける立山連峰と後立山連峰の吹雪の中の10日に渡るコースは、その一つのピークであった
左手の高いビルはアベノハルカス
その際、雪山の雪洞に舞い込む粉雪を見て、ディゼルエンジンの性能を高める画期的なアイデアを得、それを実用化することで技師に昇進し、登山家としての名声が高まると同時に職場でも重要な人間となってゆく
天守
加藤文太郎を英雄化し、登山家として彼の後を追う宮村健が現れたのもその頃だ
都会のオアシス
加藤は同郷の花子と結婚し、一児を得て人が変わったように明るくなるが、宮村は失恋の痛手を清算するために冬の北鎌尾根を志し、加藤にパーティを組んでくれと頼む
家庭を持って山行きを止めようと考えていた加藤は、最後の機会としてそれを了承するが、彼は初めて人と組んだこの登山で、宮村の無謀な計画に牽きずられて遭難死してしまう


























