小生にとって、北山修といえば「さすらい人の子守唄」、曲も本もベストセラーになりました

「人生に目的なんかない、始まりだけである。子供からなぜ?と聞かれても答えに困る・・・」というようなことが書かれていたと思う


二股をかけた生き方を選ぶ


76年に帰国し、自切俳人(じきるはいど)のペンネームで音楽活動をしながら、東京青山に「北山医院」を開き、精神科医として歩み始める。当時、音楽家と医者という二股をかけた生き方を受け入れ、面白がってくれた数少ない人物がロンドン留学中に知り合った慶応大学の精神科医・故小此木啓吾だった


「あらゆる物事に対し、等距離を保ちながら観察するのが精神分析の基本ルール。僕に対する先生の姿勢がまさにそうであった」


この頃からメディアに素顔をさらすことを次第に控えるようになる。「主治医がマスコミに顔を出せば、患者は私のことを話しているのではないかという不安を持つ。精神科医に求められるけじめだった」

仕事によって名前を漢字とひらがなで使い分けることも、そうした配慮からであった


高校時代、手編みのマフラーを贈ったこともある法政大学教授の田中優子は言う。「ファンだったことを話すとすごく嫌な顔をされる。自分の中にある虚像と実像の乖離にずっと悩んでいたのだと思う。メディアに出ない選択には自分を守る意味もあったのでは」


後に江戸文化研究者として精神科医・北山と出会い、浮世絵に日本人の精神構造を探る共同研究にも参加した

きたやまの生き方には仕事や遊びの場面で名前を使い分け、人生を楽しむ江戸時代の人々が重なるという。そこには個の一貫性に頓着せず、多様な自己を認める自由があった

(朝日新聞・逆風満帆より)