「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク…川崎展宏

この句のカタカナ部分は大和からの打電の形をとる。ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)は死の国(黄泉へとつづく坂である

5月10日・12:51分、研修会で呉市にある大和ミュージアムを訪ねました。この機会に戦艦大和について少し学んでみたいと思います



昭和20年4月6日午後4時5分、山口県徳山の沖、三田尻沖を戦艦大和はじめ巡洋艦「矢矧」ほか駆逐艦8隻と共に水上特別隊として出撃

ネプチューン:ギリシア神話の海神で、ギリシア名をポセイドンといい、海の守り神です

夕刻頃、愛媛県佐田岬を通過、豊後水道に出る。双眼鏡を手に陸地を見ると海辺の桜が今を盛りと咲いているのが見えた

もう桜を見るのもこれが最後かと思うと瞼があつくなった

7日午前零時頃、日向灘を無事通過したが、大隅海峡を通過中、敵潜水艦に接触があり駆逐艦がこれを追い払う

午前6時ごろ薩摩半島枕崎付近進行中、敵機PBYマーチン大艇2機と遭遇するも戦闘はなく敵機は見えなくなる。午前中は何の変化もなく平穏に過ごす。午前11時、主計兵が昼食と云って握り飯を運んでくれた

午後12時30分頃、左舵前方に雲と雲の切れ目に、黒ゴマをまいたように敵艦載機の大編隊を発見、数分後に第一波の来襲があり、本艦は直ちに「対空戦闘配置につけ」の号令で見張所にいた私は直ぐ舞い戻って戦闘配置についた

平城の訓練と何ら変わらないような気がする

伊藤司令長官と有賀艦長、副長、航海長ら首脳部は、私らの位置(前部測的所)より下の防空指揮所に集まったので首脳部の声がてにとるように聞こえる

さあ愈々此れが実戦になったのか。戦闘になると戦友の声もあまり聞こえず、手真似、口真似で精が一杯である
次いで第二波の来襲があり、その時、後部測的所に直撃弾を受ける。そこには助田少尉ほか数十名が居たが、負傷しながらも一人だけ生き残りましたと、江本分隊長に戦況報告をしていました

江本分隊長は傷の手当てをされるようにと医務室へ行くことを勧めた。助田少尉はその場を立ち去り、その後、行方不明となる

第二波では、敵機が約100機から150機の来襲あり、戦艦大和は機銃(三連装)及び高角砲で応戦する

北川茂氏(元海軍水兵長)戦艦大和の記憶より

続きは明日に連載します