仏教受容をめぐる争い

新しく渡来した異国の宗教の受容問題をめぐって、当時の進歩派であった蘇我氏が崇仏を主張し、保守派であった物部氏は排仏を固執し、両者の対立が次第に激しくなり、仏教もそのために迫害を受けることになりました

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用明天皇2年(587)、蘇我馬子は甥の子であり、娘の婿にあたる厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、排仏派の頭領であった物部氏打ち破り、ようやくのことで日本の仏教受容の道を開くことになります
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その翌年、馬子は甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機会に、高市郡の飛鳥の地に初めて正式の仏寺建立に着手しました

この寺が元興寺の前身である法興寺(飛鳥寺)です

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百済国王は日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣してきました
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その時の瓦博士が造った日本最初の瓦は、奈良に移った際も運び移されて、現在の本堂・禅室の屋根にいまも数千枚が使用されています

時に重なり合った丸瓦の葺き方は行基葺きといわれて有名です

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この飛鳥寺は、三論・法相の両学派が最初に伝えられてわが国仏教の源流となっただけでなく、蘇我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となりました
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さらに政治・外交の場ともなりました

飛鳥時代の文化は、まさに飛鳥寺を中心に展開したといって過言ではないようです

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元明天皇の和銅3年(710)、平城遷都と共に新京に移されて(718)寺名を法興寺から元興寺と改めました

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元興寺はたちまちにして移建工事を進捗させ、僧侶たちは諸大寺の学問をリードして、新京における指導権を握ったようです
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当時の伽藍を偲ぶものとしては、東大塔跡、西小塔院跡、極楽堂(国宝)しか遺っていませんが、収蔵庫に安置する五重小塔(国宝)は奈良時代最盛期の唯一の五重塔として有名です
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