ここ沢城で洗礼を受けジュスト名を授かる
幼名は彦五郎。父ダリヨは信長に反抗し荒木村重に付いたが、右近の助命嘆願により北荘(福井)への配流ですんだ
その後、信長軍の指揮官として活躍する傍ら、布教活動、教会を建てるなど日本キリスト教会の重鎮として活躍した天正15年(1582)、本能寺の変勃発。秀吉と共に中国攻めに出ていたが、秀吉の中国大返しに同行
賤ヶ岳合戦では武将としての有能さは万人の認めるところとなった
この頃から千利休の高弟として茶人としても活躍し、茶を介して深く付き合うようになった武将たちの多くをキリシタンに改宗する手引きをした秀吉の厚遇を受け「小牧長久手合戦」では秀吉の警護に当たり、高槻4万石から、明石6万石に加増、転封となった
秀吉に従い九州攻めに従軍していた天正15年(1587)、キリシタン禁令の発令と共に棄教を迫られるが拒否し、小西行長の手引きで淡路島、小豆島に隠れる
翌年、右近の才を惜しむ前田利家が加賀に引き取り軍事顧問として小田原攻め、関ヶ原合戦で活躍
比布バス停で昼食をとり、13:43分発のバスで榛原に向かいました
利家の死後後継者・利長の顧問として政治にも参加、家老扱いを受け、金沢城の改修、高岡城築城など建築の才も示す利休高弟として茶を広め、追放されたキリシタン武将を前田家に世話するなど、布教活動を続けた
榛原駅で又兵衛桜直行バスの往復券(950円)を買い求めました
慶長19年(1614)、家康はキリシタン禁令を発令、宣教師、信者等の海外追放を命じる
家族と共に前田家を辞し、長崎からジャンクに乗せられマニラに追放になった
榛原駅14:33分の直行バスに乗車
マニラでは「偉大なキリストの騎士」として大歓迎を受けるが、到着直後から体調を崩し63歳で病没
全マニラ市により10日間に亘る葬儀の執行を受けて、マニラ市のイエズス会墓地に葬られた










